第二回ナディマスタートランスミッションスタディシェアiiiiiii(8次元)

ナディマスタートランスミッション第二回&ビーナスファウンデーションリリース第3回の感想


今回は特に盛りだくさんな内容となりました。いつも前倒しで色々とあるので、今回も例によって当日については書くことがちょっと…ないのですが、今回のTM(トランスミッション)のガイダンスではマハコハンが「あなたがたひとりひとりともすでに繋がっているのだ。」と言っておられ、確かに、なるほど!と唸りました。



今回ばかりは内容が非常に濃い事前期間で、前回のTM感想を送った後に気がついた重要なことと初めての経験、その期間に読み始めた本と後日頂いたガイダンスに書いてあることが多々重なったためテンションが上がり、またパン&パンドラのエネルギーについても、キツい盛り返しを少しでも楽に乗り切れるようゲームで遊んだりして気晴らしでき、ウキウキして当日を迎えました。



前回TMの感想で「自己価値の再構築」が命題と書きましたが、その一端として自分の心地よさを他人に預けるクセがあると気になり始めてから連鎖が起こりました。もう随分長い間、問題のそれぞれを意識的に解決しようとしてきました。しかし思考や理論で舵を取っておし進めていくことはいずれ限界が来るものであり、そういうやり方とは別の、今のところ言葉にしようにもしづらい自然な連動現象を体験し始めて目からうろこの日々でした。



これまでのトランスミッションファウンデーションを受けてきた成果とも言え、嬉しい限りです。また、久しぶりにwebの無料オーラソーマリーディングをやるようになった事と、A Course in Miraclesを読もうとして出逢った「無条件の愛」(ポール・フェリーニ著)が更に理解を加速させてくれました。



以下日記から抜粋します。
【TM第1回からの重要な気づき:3/10〜第2回前日まで】

ガイダンスでクマラが言っていた「幻想」とは「投影」のことだったのかと気づく。「投影」が何なのか、すでに知っていて客観視上ではピンと来ないからといって自分は当てはまらないということはないと気づく体験をした。


これまで怖くて思い出せなくなっていた記憶が感情と共に浮上するようになり、今は私の準備が出来ていることもあって、再び出会っても全然怖くない。深く海底から浮上してきた自分の一部を抱きしめるように再会すると、感情的には辛いが、これらを何度も繰り返しているうち、当時ってそうえいばこんなに辛かったんだなぁと思え、遠くに引き離してしまったことがすごく申し訳なく思えた。



後日、私自身から拒否された自分の一部が再び戻って融合していく時、”もろとも”的に生々しい感情を追体験するのであって、良い悪いなく自然現象だと気がついた。映画のワンシーンで、電気が流れている人を助けようと抱きとめると、自分にも電流が流れて…といった場面が思い浮かんだ。これがひとつ終わる毎に心が軽くなり、翌日には台風一過の晴天日が来るし、気づいても感情的な発露がいつまでもなされないでいると胸の奥が雑巾絞りのように強烈な収縮を伴ってものすごく痛む。



また、自分の心地よさが人の態度によって左右される状態がこのところ目立っていたけれども、同時に「外じゃないよ、内にあるよ」というメッセージを色んな所で見るようになった。あるがままを受け入れるということの意味は、ただ、歪み・不足・未成長な部分がわかったというだけのことで、それで十分で、それ以上の心配事や後悔や厳しい査定などをデコレーションするとそっちの方が育っていく。



これらのことを順繰りに体験したことで、自身のダークサイド・ネガティブな部分も、浮上してくれば大丈夫大丈夫と言って迎え入れるようになり、「もう仲間外れはヤメた」と思え、そう思うだけで心の中がじわ〜とする。


また外との係わり合いの中で思わずしている批判や評価などについても、ふとしたはずみに自分の持ちものではないものに気づくことが何度もあった。中には当時、それは自分じゃないからと真っ向から拒否した押し付けの価値観なり人間像すらこの中に存在していて、何でそうなってしまったかと言えば、孤独の恐れと恋愛のもつれの名残だった。



また、生まれてこの方8割がた、鏡を見ると自分の顔がハニワみたく見えてすごく嫌だったのだが、これというのも意識は輝く人のところへ逃げたがり、お留守のこの身体には代わりにその人に入ってもらいたい、或いは自分がその人に化けてさも自分であるかのように振舞ってきたからだったのか、と気がついた。



こんがらがった意識が丁寧にぼぐされ、海底に沈んだものをひとつずつ整理し、自分でないものを捨て見切ってしまった分身をひとりずつ海面で迎え入れる出来事がTM2日前辺りまで続いた。




【宇宙の良心について】
この部分について、うっかり「偏在」と勘違いをしたままでいましたので、これについては後日ゆっくりわかってくると思います。



ですがそれ以前に、先に書いたように自分の中から追い出してしまったそれぞれの部分と、また他人から取り入れた自分ではないものを外してgenuineに向かって統合していくことで初めて、本当の意味での善き遍在が始まるのだとなんとなく思いました。


オーラソーマリーディングで3番目にB029を選んだ時、メッセージの中にあった「それぞれの音を奏でる」という部分がとても印象的で、和音の美しさと不協和音のコードを思い出した。音楽理論には明るくないが、非常に美しい不協和音と、不協和音らしいいびつな音がコード進行の中にあること、角度が変わることでハーモニーにもなれば耳障りな音にもなることだけは知っていた。音楽理論では、人間が耳に聞いて心地良いかどうかの良し悪しではなく、単純に音の組み合わせや響き、角度の展開としても存在価値があるというのを改めて知って、なるほどなと思った。またどのコードが不協和音になるのかもその時代によって変わるという話です。


音への善悪の判断以前に、単純に存在することの意味、もしくは意味などないのに人が意味をつけたがるだけかもしれない。これ以上は、今後ゆっくり知っていくだろうと思います。