マスターに導かれた人と、マスターとして生きた人

マスターの話題が出ているので、わたしの理解している範囲で、マスターに導かれた人として、わたしが深く感銘を受けている人、マスターとしてこの人は生きたのだなと最近感じた人を書いてみたいと思います。



まず、マスターに導かれた人として、わたしの心にあるのは、アウシュビッツの聖人として知られるコルベ神父です。コルベ神父は、幼いときに、聖母マリアと個人的な邂逅を経験し、のちに献身したといいます。そして、アウシュビッツに捕えられます。Wikipediaには、こうあります。「1941年5月にナチスに捕らえられた。その理由としては、コルベが発行していた『無原罪の聖母の騎士』や日刊紙がナチに対して批判的なものであったからとも、当時のナチスユダヤ人のみではなく、ポーランドにおける有力な人物をも逮捕の対象にしていたからである」

以下もWikipediaから
「脱走者が出たことで、無作為に選ばれる10人が餓死刑に処せられることになった。囚人たちは番号で呼ばれていったが、フランツィシェク・ガヨウィニチェクというポーランド人軍曹が「私には妻子がいる」と叫びだした。この声を聞いたとき、そこにいたコルベは「私が彼の身代わりになります、私はカトリック司祭で妻も子もいませんから」と申し出た。責任者であったルドルフ・フェルディナント・ヘスは、この申し出を許可した。コルベと9人の囚人が地下牢の餓死室に押し込められた。

通常、餓死刑に処せられるとその牢内において受刑者たちは飢えと渇きによって錯乱状態で死ぬのが普通であったが、コルベと9人は互いに励ましあいながら死んでいったといわれている。時折牢内の様子を見に来た看守は、牢内から聞こえる祈りと歌声によって餓死室は聖堂のように感じられた、と証言している。2週間後、コルベを含む4人はまだ息があったため、フェノールを注射して殺害された。」

餓死刑というのは、最も人間性を極限まで追い詰め、破壊させる刑だと言われています。けれども、コルベ神父は、その極限においても、聖母マリアの幻視を見つづけ、同じ獄に居る人たちを励まし続けたと言われています。
マスターに導かれるということは、こんな有り得ないときにも、平和を保つことが出来る可能性をもたらすものなのかと、実は、わたしの中でのひとつの支えにもなっています。



マスターとして生きた人としては、最近「禅(ZEN)」という映画でしった、鎌倉時代の仏教家 曹洞宗の開祖「道元」です。この人は、映画を見るまでは、ほとんど知識がなかったのです。ただ坐るということを通して、自分のなかの「仏」に出会う、誰のなかにも「仏」がいるのだ、ただ、それがわからなくなってしまっているから、静けさのなかで、自分と向き合うのだとそのことのみを教えた人だったとのことでした。時の執権の北条時頼が、討罰したたくさんの武士の怨霊に悩まされたときも、祓うのではなく、すべてそれらの武士たちの痛みや恨みも自分として受け入れることを諭します。全部自分なのだからと。そのために斬られそうになるのですが、どうぞお斬りくださいという態度に、時頼もこころを改めるのです。この人はマスターだな、マスターとして生きていたのだなあ。こういう人が日本にもいたのだと感動しました。


わたしの感じているマスター性とは、こういうもの、そしてこういうエネルギーをマスター全員に感じます。もしかしたら、一人一人感じるものは違うし、違ってもいいものかと思いますが。



映画では、歌舞伎界の中村勘太郎さんがとても良く演じていらっしゃいました。伝統芸能の世界で生きている人というのは、いろいろなものを見てきているのだろうなとも感じた次第です。もし機会があったら見てみてください☆



わたしたちのなかにも、わたしのなかにも、こんなに素晴らしいマスター性があるのか(今は、まだ眠っているけれども、笑)そんなふうに考えると勇気が湧いてくるのです☆