期待なく与え、受け取る

先週の土日に研修で、「タントリックブリージング」に出席しました。

まだ、上手くまとまっていないのですが、ここに書きながらクマラとつながれるかもしれないと感じるので進めてみますね。

このセミナーを受けながらわたしが強く感じていたのは、神殿娼婦、聖娼と呼ばれる存在の過去生のこと。

最近になって、クライアントさんや、それ以外の知り合いからもよく聞き、わたしも深いところにもっていた傷のもとになる経験と記憶。

わたしは、この経験を肯定的には取れなくて、それが、わたしのなかの男性に対する深い怒りに繋がっていました。結局のところ、自分の意思を踏みにじって、相手を受け入れなければならないというのは、当時の霊的指導者に態良く利用されたということなのではないか?と。




けれども、結論からいって、わたしには到底無理だろうと思われるワークをこのセミナーで行うことが出来たのです。指導者が女性だったということ、そして、そこに流れていたエネルギーがとても高かったということもあると思います。


まさに体感しなければわからなかったこと。



女性性は、与える質を持っていて、男性はこの女性性のエネルギーを必要としている。
これは、男性女性に関わらず、両性のなかに女性性がありますから全ての人の問題です。
一番わかりやすいエネルギーの交換は、セクシュアリティ的な交換。
セミナーでこれを行ったということは、もちろんないのですが、エネルギー的に交換するということは行われたのです。
それだけでも、日常では、奪われるような感じがして、わたしは苦手なのですが。



ここでのポイントは「期待せずに」特別な期待を相手にせずに行うということでした。



けれども、現実生活ではこの「期待せずに」というのは、非常に困難です。
人間関係において、期待しないということはあり得ない。
特に好きな相手、惹かれる相手には、自分を特別に思ってほしいという期待が絶対入ってしまいます。というのは、ここ(現実の場)のエネルギーはそう高くないからで、相手に捧げると自分が減るんです。だから、同じように返してもらえなければ、与えるほうには苦痛になります。


けれども、お互いに高いエネルギー量を持ち、そしてそれが純正であれば、奪われるという感覚がない、流れているという感じになるのです。


エネルギーが純正であるということは、与えたからといってその後特別な期待を相手からされる必要がないということです。依存がないというのかな、だから自由であるということが可能。相手をしばる必要性がないのです。



わたしたちがもう忘れて思い出せない遠い遠い過去には、まだ地球のエネルギーが非常に高くて、聖なる母性的存在がすべての存在をえり好みすることなくエネルギーを与えていた時代があったのかもしれないなと感じました。


けれども、少しづつそのエネルギーが下がって、それは、非常に困難を伴う行為になった。
一見では、愛される存在と、そうではない存在が出てきた。

そこから、十分に与えてもらえない男性側がセクシュアリティに対して深い怒りを持つようになった。そして、その怒りを女性が被るようになった。
女性はますます自分の身を守らなければならなくなって、容易には与えられないと思った。
条件づけの始まりです。



自由に与えること。これを現実の生活で行うことは不可能。
また行う必要は全くないと思います。



ただ、そういう流れや意識が、女性と男性の深い溝を作っていると理解すること、それをサポートするのも金星のエネルギーなのかもしれません。



誰にとってもセクシュアリティは、デリケートであり、センシティブに扱うべき問題です。
けれども、そこにこそ変化の錬金術が隠されているということ。ヴィーナスに惹かれない存在はいません。惹かれるということに怒りや失望を感じないで欲しい。その経験や感情を癒すために、わたしたちは、金星から地球にエネルギーを送っているのです。
分離から統合へ向かうために...。クマラの言葉です。
これは、全存在にとって深い避けることのできない問題であるからこそ。