不完全さの中にある完全さを見る、善と悪を超越する視点☆


≪シェキナー≫


鸕野讚良皇女(持統天皇)は、自分自身が
権力と能力に溢る存在だったからこそ、
自分のなかに存在する闇の力も必然的に強くなり、
向き合わざる得なかった。
これは、魂にとって大変な試練です。


でも、だからこそ、草壁皇子が、
彼女の子として生を受けたのかもしれない。
草壁皇子の存在が、より彼女のなかの闇を深めた。


そして、究極の闇を内面に抱えたことによって、
もしかしたら、彼女の魂は、結果として究極に清められたのではないかと
思うのです。


知られているように「古事記」「日本書記」が編纂されたのは、
彼女の治世時です。


日本の神話の最高神である天照大御神は、
鸕野讚良皇女(持統天皇)の、自身の在りたかった真の理想が
込められているような気がするのです。


その絶対性、何ものも犯すことの出来ない神貴性。


光には影があるように、影もまた究極の光を生み出す。


日本神道のなかの荒魂(あらみたま)・和魂(にぎたま)という
考え方も、それが反映されていると思う。


そういう意味では、草壁皇子もまた、
魂にとって究極の試練だったけれども、
母親として、鸕野讚良皇女(持統天皇)を
望んだのかもしれない。


女性であった持統天皇
その陰であった草壁皇子
日本神話では、天照大御神が女性神であり、
月読命が、男性神とされています。


通常、太陽が男性性、月が女性性と
いわれるのと反対である意味。


そこに、持統天皇草壁皇子の関係を
見るのは、深読み過ぎでしょうか?


そして、親子二人を見守る「丹生都比売」。
丹生都比売は、天照大御神のもう一つの姿であるとも
いわれる説もあります。


不完全さの中にある完全さを見る、善と悪を超越する視点こそが、
「丹生都比売」であるような気がします。
それは、日本神話すべての根底に流れている思想。


その結果としてのシェキナー(統合)。
以上が、今年2015年の春分の≪シェキナー≫で、
わたしが得たインスピレーションです。

人間の自我が物理的宇宙でバランスと理解を追求している時、
その葛藤を明らかにします。
より懸命に、正当に、暗い面を避けようとすればするほど、
影(通常は抑えられている、人間の原始的な性的・攻撃的衝動の原型)の人生が、
ますます破壊的になる恐れがあります。


影の存在および「天地創造」の神秘を受け入れるにつれて、
私たちに内在する光が輝きだすのです。


人間性の陰鬱な、あるいは醜悪な面に、
真の霊的統合の種子があるのです。



(イシャ・ラーナー「インナーチャイルドカード」)