草壁皇子を見守る「丹生都比売」☆3


≪シェキナー≫

吉野は、昔から霊験あらかたな神仙の地として、
不遇な身となられた貴人(うまびと)が、もう一度勢いを取り戻すため、
また修行のために、籠られることが多い土地側でした。


吉野は、水銀(みずがね)の採れる地でもあります。
このころ水銀は、不老不死の妙薬として
大変に珍重されておりました。


水銀は、辰砂(しんしゃ)と呼ばれる赤土を焼き、
そのときに発する気を清らかな水に冷やしてつくります。


吉野が蘇りの力を与えてくれる場所だとされていたのも、
水銀と清らかな水のたまものであり、
そしてこの水銀と清らかな水を統べていらっしゃるご神霊こそが、
丹生都比売なのでした。


けれども大海人皇子がいくら神渡りをお願いなさっても、
丹生都比売は、いっかなお出ましにはなりませんでした。


(梨本香歩「丹生都比売」)


この父、大海人皇子を、助けることになるのが、
草壁皇子の命を賭す霊的な「諦観(あきらめ)」の働きとなるのです。

その頃、必死の思いで、神業に励まれる大海人皇子の頭上で、
突然雷鳴が響きました。


そして厳かさに身も震える思いの大海人皇子の眼前に、
象山よりも遥かに大きく高く、
銀(しろがね)に輝く神御衣(かむみそ)をおまといになった、
神々しいお姿の丹生都比売が
顕現なさったのです。


比売は大海人皇子に向い、
晴れやかに微笑まれると
そのお袖を優美に振られ、
その風はえもいわれず不思議な力の源のように
大海人皇子の体を包み込みました。


大海人皇子はその有難さ、畏さに
しばし我を失っておられましたが、
ふと気づくと既に比売のお姿はなく、
代わりに、何と神門の向こうから轟々と
流れでる水と共に、
御子の草壁皇子が現れたではありませんか。


大海人皇子はそれはそれは仰天なさり、
慌てて川の中に入られて皇子をすくいあげられました。
有難いことに、まだ息がおありです。


大海人皇子は、畏くも丹生都比売が
神宮に戻られたのは、
事の次第はわからぬけれども、この草壁皇子
命がけでなさったことである、
と見て取られました。


お運びになる途中、
皇子はお気がつかれたのか、
うっすらと目をおあけになりました。
大海人皇子はそのお顔に向かって、
「そなたは良い働きをした」
と、力強く抱きしめながらおっしゃいました。


そして、もう一度、
「そなたの働きで我は蘇ったぞ」
と、大声でおっしゃいました。


草壁皇子は夢を見ているかのようなお顔で、
それでもにっこりと嬉しそうにお笑いになりました。


そのとき、大海人皇子草壁皇子
笑われたのを見るのは、
これが初めてだったとお気づきになられました。
そのお顔は、百済からの観音様の像を思わせました。


「清(さや)けし」
大海人皇子は呟かれました。


(梨本香歩「丹生都比売」)


このように、現世での成功を
陰で支えているのは、恵まれない立場において、
その苦しみにひたすら耐えている、思いがけない誰か、なのかも
しれないのです。


そのことを教えてくれるエネルギーが、
丹生都比売なのかもしれません。