満月の龍宮祭(の続き)5


江の島神社は、
奥津宮の多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)
中津宮の市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)
辺津宮の田寸津比賣命(たぎつひめのみこと)
が、ご祭神になっています、の続きです。


わたしは、日本の神道の神様には、まったく詳しくなく、
子供時代は、神社を怖れていたくらいだったので、
神社が大丈夫になって、いわゆる日本書紀や、古事記に記されている
日本古来の神様の名前を覚え始めたのも、
この仕事をするようになって、高次の存在たちと明確な意思をもって
交流するようになってからです。


それで、ミカエルロータス(第二チャクラ)の最終的な目的としては、
高次の世界に属する存在たちと
交流できるようになるというものがあるのですが、
たとえばある神霊について、知り、理解を深めるというのも、
段階が必要なのだと思います。


この部分は、人間関係も同じでしょう。
ある人に出会い、出会ってすぐに
その人の人格すべてが理解できるわけではないですよね?
また、すぐに仲良くなれるというわけでもないです。
少しづつ機会を捉えながら、相手を知ってゆく。
そして、相手を深く知ればしるほど、
自分にとっての相手の立ち位置がはっきりしてきます。


知り合ったすべての人と親しくなるわけではないように、
神霊も同様なのだと思います。
相手がこちらを認めて、自己のエネルギーを開示してくれるというプロセスと、
こちらが、その神霊に対して忍耐強く理解したいと望む姿勢を見せるか、
真摯な態度を持っているかというのを判断されると思います。


それは、高次の存在たちも、なるたけ本質から外れずに、
自己の本質を理解できる人物に、自己のエネルギーやメッセージを
託したいと望むからでしょう。


というわけで、何が言いたかったかというと、
日本古来の神様(の区分)については、
真摯に理解したいと努めてはおりますが、
わたしはまだまだ正確には理解できていない部分が
多いのだろうということです。
だから、これは、わたし個人が理解した内容ということで、
なんらかの権威を持った意見ではないということを、
ご理解いただいて、読み進めていただければと思います。


さて、今まで≪サラスバティ瀬織律姫≫とだけ大きく捉えていたエネルギーですが、
今回、
辺津宮の田寸津比賣命(たぎつひめのみこと)
の部分が、
いわゆる「穢れを流し浄める水のパワーの恵み」であると分けられるかな?
と思いました。
「神名の「タギツ」は「滾(たぎ)つ」(水が激しく流れる)の意で、
天の安河の早瀬のことと解釈される。」と解説などにあることからも、
瀬織津姫的な、滝の水の勢いにも通じる海の波の勢いや、川の流れにも
通じる自然界のエネルギーを包括しているのかもしれないなと思ったわけです。



で、
中津宮の市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)
は、それとはちょっと違うエネルギーのようだと、
今回の参拝で感じたのです。
それは、自然界のエネルギーというよりは、人っぽいエネルギーというか、
そうですね、マスター系というか、マスターを目指しているエネルギーのようだ、
と感じたのです。


市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)のエネルギーを、
ああとても美しいエネルギーなんだな〜と感じた理由も
そこにあるような気がします。
つまり、自分を清め、美しくあろうと努力している姿勢のエネルギーというか、
そのように真摯に一心なエネルギーだな〜と感じたのです。
そういう姿勢のエネルギーって、本当に美しいのです。
自分が完全に清いわけではないと謙虚に自覚しつつ、
でも、おそらく自分のための理由ではなく、
もっと大きな目的、おそらく慈悲のようなものによって
努力に向かわせられている魂の持ち主という感じ。
そのような魂に、龍は、魅かれたのではないでしょうか?


奥津宮の多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)
の部分は、
市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)のなかのまだ荒々しい部分というか、
制御が難しい、ゆえにパワーの源にもなっている別の部分。
神道で、荒御霊と呼ぶような部分じゃないかしら?と思ったのです。
神名の「タキリ」は海上の霧(きり)のこととも、
「滾(たぎ)り」(水が激しく流れる)の意で天の安河の早瀬のこととも解釈されると
解説にあるように、ここは無垢ゆえに、また荒々しさが残る部分のような気がしたのです。
わたしたちの内面に在る自然界ですね。
そして、調べたら、やはり多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)は、
市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)の別名とされる解説も多いんですね。


日本の神様は、ギリシャの神々のように、
西洋における絶対唯一の神という概念とは違って、
光も闇も両方を表現しているというのは、
深い意味があると思います。
何かを押し付けるような感じではないんですね。


神社のご神体の多くが、鏡であるように、
神々に自分の姿を映し出して、自己を顧みるように
促している精霊たちという感じがします。


宗像三女神は、なぜ三女神なんだろうというのは、
きっとまだまだ深い理由があるのだろうと思いますが、
その中でも、
市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)は、意志をもった存在に
感じられます。
そこが、人間に近いというか、マスター系に感じる理由かもしれません。


大天使ミカエルは、人間がマスターになることをサポートする
正義を教える大天使です。
今回、そのミカエルロータスの開催中、エンパワーメント設定中の
参拝だったからこそ、
そのような意思に殉じているようである
市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)のエネルギーが、
仲間としてというか、親和性を感じてくれて、
わたしにコンタクトしてくれたのかもしれないな〜と
理解しているところです。
一応、僭越ながら、わたしもそのように在りたいと
願っては?おりますので、苦笑。


神名の「イチキシマ」は「斎き島」のことで、
イチキシマヒメ」は神に斎く島の女性(女神)という意味になる
という解説も、他の2女神とは、少し趣と異にしていると
思うのですよね〜。


江の島は、神の島であり、
その神の島で、自らを潔め、
なんらかのとりなしを、
それは人々の海での安全、
それは、感情的な痛みの癒しに
通じる部分でもあると思うのですが、
そういう愛と慈悲の意志をもった巫女的な
存在として、
今回、初めて、市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)を
理解出来たのかもしれません。


僭越ですが、なんとなく
親しい友人のような感覚を、
市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)に
今、覚えています。
まだまだ欠点はあるんだけれど、
努力しようとは、
決めている、みたいなところがです、笑。
親しみを感じてしまうというわけです♪、笑。