「地上の生の質を変化させるための挑戦」を乗り越えるために☆


月の女神学校vol.5 『自分を無価値で、みじめな存在だと感じたときの感覚に対処する』
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昨日、宮崎駿監督が引退するというニュースが流れ、今朝、過去の作品を交えたインタビューの特集のなかで、監督が、ご自分のことを、
「僕は、とても臆病なので」
とおっしゃっていました。
こういう仕事(アニメ制作)をしているのは、たくさんの人を楽しませたいという思いがあるから。
だから、楽しんでいない人を見ると、どうしても、心が痛くなるのだ。
そういう文脈で、だから、ご自分のことを臆病だと話しておられました。


心が痛くなるというのは、楽しませられない自分を、無価値でみじめに感じるということなんでしょうね。
好きで、自信もあって、やりたいと思い、精根込めてやるからこそ、否定されるときに、自分を全否定されるように感じる。
それは、非常に、心にとっても、自己価値においても、大きな痛みです。
逆説的に言えば、挑戦しなければ避けられる痛みかもしれない。
だから、挑戦しないという人も多いでしょう。


でも、宮崎駿監督は、結果として、挑戦してきたわけですよね?
もちろん、その結果として、良い評価ばかりのときだけではなかったでしょうし、それだけ人知れず失意を味わったことも多いのではないかと思います。

失意を味わいながらも、なぜ挑戦し続けられたかといえば、自分が「臆病だ」と認める強さがあったからではないでしょうか?


すごくパラドックスの部分なのですが、自分を弱く臆病だと、無価値だと感じることをとても怖いと思っているということを、認めたくないために挑戦しない人って、多いと思うのです。
だからこそ、自分を臆病だ、弱いと受け入れられた人ほど、本当は強い。
そして、挑戦できる。
そして、その痛みを引き受けたからこそ、「地上の生の質を変化させるため」に人生が提供するチャンスをものにすることが出来た。
そういうことなのだと思います。


これは、私の経験上のことなのですが、自分にとってどうでもいいこと、確実にできると思うことで、成功しても、それは、自信にはならないように思います。
本当にやりたいこと、自分の価値を、あえて秤にかけるようなことに挑戦することによって、自信って、初めて生まれる。
そして、その挑戦が、いつしか、自分自身のためだけではなく、多くの人を励ますために挑戦するというまでになったときに、大きく天界の祝福が降りてくるようになるように思います。
そうなっても、楽になるというわけではなくて、むしろ挑戦のハードルは、どんどん高くなるのかもしれないけれど、それゆえに一層、自分の力だけではない恩寵を感じる能力も上がってゆくのだと思います。
それ自体が、ゴールのないゴールというか。
人生って、生きる目的って、そういうものなのかもしれません。

そして、本物の成功者というのは、そういうことを理解している人だろうと思うのです。



前の記事で、軽井沢で、豊かさについて改めて考えたと書きましたが、それは、軽井沢で、豊かなもの、贅沢なもの、心地良いもの、高価なものを、否定して、憎む人たちに触れたからです。
今は、それを経験する豊かさが自分になくても、いつか経験できるようになるといいな〜と考えるのではなくて、そういう自分が今手にいれられないでいるものを、憎んで否定する人たちというのもいるのだな〜、そして、結果として、そういう人たちが気になったということは、自分の中にも、それがあるのだろうと、改めて感じたのです。


地上に生がある限り、地上の生の質を変化、向上させるチャンスは、毎瞬毎瞬やってきます。
それは、死に至る直前までそうだといえると思う。
今は、それが手に入らなくても、それに憧れ、望み続けることで、わたしたちは、少しづつ変化してゆけるという希望を持って生きることが出来る。

でも、手に入らないものを憎むということは、それが手に入れられる自分に変化すること、それを準備させるような挑戦を拒んでいる態度ゆえなのではないか?と感じました。
それは、結果として、それが手に入らないという状態への怖れからの、臆病さゆえ。
でも、その自分の臆病さを認めることができないゆえの、手に入れられないものを憎むということでの安全性の確保。


だからからかな〜、わたしは、「あんな贅沢必要ないよね?」という問いかけには、「うん!」と、素直に頷けない。
別に、手に入れられるなら、そしてそれが心地よく自分にとって価値があると思えるなら、必要と思ったっていいじゃない?って思ってしまう。
そうは、本人には言いませんが、笑。
そして、そういう同意を求められると、とても窮屈な感じがしてしまう。
何か、その人の価値観に無理やり押し込められるように感じると同時に、その人の臆病ゆえの挑戦を避ける態度に、同意させられ、肯定させられているような感じがしてしまうから。
それは、わたしの本意ではないから。


それくらい、臆病で怖いと思っているのだな、この人は。
とも思います。
それは、やはり苦しいことなのだろうと。
そして、わたしは、その人を無理やり変えることはできないから、わたしにできることは、ただ聞き流すこと。
もしも、わたしにできることがあるとすれば、わたし自身が、「地上の生の質を変化させるための挑戦」に取り組み続けることだけなんだろうな。
そして、その挑戦というのは、自分のなかの、臆病さや、怖さや弱さに対峙することに他ならないのだろうなと思います。


そういうことを、つらつらと考えて、宮崎駿監督の、
「僕はとても臆病なので」
という言葉を、とても重く感じたのです。


わたしたちが、何かに、また他人に否定され、打ちのめされるとき、
それは、≪地上の生の質を変化させるための挑戦≫であって、
わたしたちが無価値であるということではないのです。

でも、感情的に非常にダメージを受けるので、回復させること自体に勇気が入ります。
さらに打ちのめされることを怖れるからです。

たいてい自分をみじめな存在だと感じると、力が抜けて立っていられなくなります...。
けれども、それではさらに自分をみじめに感じるという場合は、怒りによって鎧をかぶります。

けれども、どちらも真の地球上での解決ではありませんね。
「地上の生の質を変化」させるということが、真の答えです。

わたしたちは、誰でもが戦士なのだと思います。
地上の戦いのなかで、くず折れた戦士である自分のなかの痛みを、月の女神たちにすみやかに癒し、浄化してもらい、「喜びを持って力強くグラウンディング」することが出来るようにしてもらうというのが、この「月の女神学校vol.5」の内容です。

「パラスアテナ」のエネルギーを強く感じます。
自らも戦士である女神、そして英雄たちの困難を極めた地上の旅と戦いを導く女神です。
自分との戦いです。