コアスターからアーススターまでのハララインを活性化する働きは、≪レディ・ナダ≫☆



今、去年の7月のことを思い出していました。
あれも、本当に貴重な体験でした。今思えばですけれど。


そう、あれは、言わば、3次元で2次元(地獄)体験していたようなものでした。
そして、V・Eフランクルの「それでも、人生にイエスと言う」を読みながら、強制収容所のなかの人々と自分を重ねあわせていました。
どうして、この本に惹かれていたかといえば、わたしは、まずこの本のエッセンスを、再転生プロセス中に必要としていたからだと思います。

V・Eフランクルは、著作「死と霧」が有名な実存主義の心理学者の精神科医です。
ユダヤ人であったため、ナチスによって、強制収容所に送られ、そのときの体験を書いたのが、「死と霧」です。


「毛は一本も残りませんでした。丸坊主にされたのです。そのあとシャワーの下に立つと、それまでの全人生のなにも残りませんでした。」
そのような状況、人生の過程においても、「人生にイエスという」、そういう体験を実際にしながらも、乗り切ったフランクル博士の言葉と体験のエッセンスが、そのときのわたしには、どうしても必要でした。

収容所に入れられると、まず第一番目のショックを通過すると、どんどん自分の運命に対して無感覚、無関心、無感動になってゆくそうです。
「はじめの2〜3日は、部外者には想像もできないような、ありとあらゆるおぞましいことに満ち満ちた大量の印象に対して、恐怖や憤激、吐き気というような感情が起こるのですが、こうした感情はついに弱まっていって、情緒そのものが最小限に減ってしまうのです。
そして、その日一日をなんとか生き延びることだけに全力が注がれるようになるのです。」

「そうなると、人間の内面的な水準が下がってしまいます。ほとんど動物の水準にまで下がってしまうのです。
実際のところ、概していえば、群居動物とおなじくらい、原始的な存在になったのです。
とにかく本能的になったというかぎりでは、原始的になったのです。
退行とは、本能に支配された原始的な段階に心が後退することなのです。」

でも、ここからが大切なところです。

「しかし、強制収容所の体験は、運命のように必然的に、人間を退行に、したがって後退に追い込んだわけではないのです。
わたしは、退行するどころか、逆に、まさに強制収容所で、まさに強制収容所の体験を通して、内面的に前進し、内面的に自己超越して成長し、ほんとうに大きな人間に成長したたくさんのケースを知っています。たとえそのようなケースが数少なかったとしても、それが決定的な証拠になっていることに変わりはありません。」

「人間には、自由があります。
自分の運命に、自分の環境に、自分なりの態度をとるという人間としての自由があるのです。
<自分なりに>ということがあったのです。
そして、収容所には、たとえば無感情を克服し、いらだちを押さえることが、ほんとうにできた人たちがいました。
そのためには、【それができる能力】を呼び起こすことがとくに大切でした。」


そのときの(去年の7月の)自分の思いを書いた部分も転記してみます。

「わたしの場合、それがなんであったかといば、これまでの歩みのなかで少しづつ、本当に少しづつ培われていった「高次への信頼」でした。
そして、辛いことが多かった人生の歩みのなかで、少しづつ「愛によって癒されてきた」という「自分のなかにのこる実感」でした。
これらの経験がなければ、わたしは本当に参っていたと思います。

思えば、わたしが、思春期に巫病になったときには、「高次への信頼」と「愛によって癒されてきた」という体験は、まだありませんでした。
だから、あの体験は、わたしにとっては、地獄そのものの体験でしかなかったです。
でも、あの体験によって、わたしは、「本物の愛」を識別することを学んだと思っています。
本当に地獄に堕ちてしまったとき、救いになるのは、「本物の愛」だけなのです。

今回、再び地獄(暗闇)に堕ちてみて、一番実感したことは、以前のようではない、ということでした。
そう、そこで、わたしは、「愛によって癒されてきた」という「自分のなかにのこる実感」という明かり(光)が、自分のなかに存在することに気づき、そのほのかな明かり(光)が、「高次への信頼」という細い糸をかすかに照らしてくれていることに気付いたのです。
これは、今回、再体験(実体験)してみなければ、わからないことでした。
それは、わたしのなかに根付いた「希望」とも呼べるかもしれません。
つまり、「希望を実体験した」と言えるかもしれません。
そういう体験であったのだと、この再転生のプロセスを認めることができるのかもしれません。」

ここからは、再びフランクル博士の言葉です。

「生きることそれ自体に意味があるだけでなく、苦悩することにも意味、しかも絶対の意味があります。」
「これほど失望した人のそのような悲哀は、最後には、二つのことによって克服されます。
それは、謙虚さと勇気です。
収容所の囚人だったらだれでも、謙虚になること、絶対的な運命に対しても謙虚になることを学びました。」
「文字通り無になった人は、文字通り生まれ変わったように感じるのです。しかし、以前の自分に生まれ変わるのではなくて、もっと本質的な自分に生まれ変わるのです。」
「収容所の囚人だった人が、収容所の生活から謙虚さと一緒にたづさえてくる勇気についていうと、それはおそらくすべての人に通じるような実感のことです。
それは、神以外は、もうなにも怖いとは思えないという感情なのです。」

そして、最終的に、≪レディ・ナダ≫のエネルギーによって、わたしは、地獄体験的な再誕生に纏わる死の体験から、復活することが出来たのでした。

≪レディ・ナダ≫は、たとえどんなことが(人生に)あっても、地球に誕生するということは、祝福以外の何ものでもないのだということを、教えてくれるエネルギーです。

まさに「それでも、人生にイエスと言う」ためのです。


このアーススター活性化のエネルギーを、「香取神宮」で再び感じたわけなのです。

(続きます♪)