それでは、2次元とは、どういうところか、復習してみましょう♪


それでは、「2次元」とは、どういうところだったかを復習してみるために、以前の記事でも取り上げた「食べて、祈って、恋をして」の、バリ島の祈祷師クトゥとエリザベスのやりとりのなかの「四人の兄弟の瞑想」を、再び取り上げてみることにしましょう。


エリザベスが、クトゥに
「ねえ、クトゥ。人生ってなんでこうめちゃくちゃなことばかり起こるのかしら」
と問いかけたときに教えてもらうのが、この「四人の兄弟の瞑想」なんです。

それに対してクトゥは、
「人間は悪魔、人間は神、どっちもおんなじ」と答えます。

『人は、神と悪魔の要素を半々に持って生まれ落ち、どちらを矯めることも、どちらを伸ばすこともできるという考え方だ。
わたしのグルもそれを繰り返し言っていた。

善なるものか、邪なるものか、そのどちらかを育てていくかは、わたしたち個人に(あるいは家族に、社会に)ゆだねられている。

この地球上の錯乱は、おおむね人間が善なるもののバランスをうまくとれないことに起因している。
集団にせよ個人にせよ、常軌を逸した行動はそのようにして生まれる。』


「では、この世界の破綻に対して、わたしたちはなにができるの?」

「なにも」
クトゥは笑った。が、その表情には優しさが溢れていた。

「それが世界というものだ。それが宿命だ。まず自分の破綻を案じることだ。自分を平和にしなさい
ということで、この「四人の兄弟の瞑想」を教えてもらうのです。

『人間は、見えない四人の兄弟とともにこの世に生を受ける、とバリの人びとは信じている。四人の兄弟も、わたしたちと一緒にこの世に出てきて、生涯を通じて、わたしたちを守ってくれる。

赤ん坊が胎内にいるときにも、兄弟たちはそこに一緒にいる。

彼らは、胎内では胎盤と羊水とへその緒と、赤ん坊の肌を守る黄色っぽいすべすべした物質に姿を変えている。

赤ん坊が生まれると、両親は赤ん坊とともに胎内から出てきたものをすべて集めて、ヤシの実の殻に収め、家の玄関の側に埋める。

バリの人びとは、この埋められたヤシの実の殻が、赤ん坊として生れなかった四人の兄弟たちの永遠の寝所になると信じている。

そして、その場所は、聖なる祠のように永遠に大切に扱われる。

子供は物心つくとすぐに、見えない四人の兄弟がいることを教えられる。どこへいこうが兄弟はいつも一緒で、自分の身を守ってくれているのだということを、子供は幼くして知ることになる。

四人の兄弟は、人が安全に幸福に生きてゆくために必要な四つの徳をそれぞれに司っている。

知性と友情と、勇気と詩心。



あなたが危機に瀕したとき、兄弟たちが表れて、あなたを救い、支えてくれる。

あなたが死ぬと、四人の兄弟たちは、あなたの魂を天国へと送りとどける役目を果たす。

神に祈るときのように、かしこまる必要はない。

家族のような愛情を持って彼らに話しかけるといい。

なぜなら、「本当にあんたの家族なんだから!」』


この本には、そのようには書いていませんが、わたしはこの四人の兄弟こそ、自然界の四大元素たちだと感じます。
バリは、日本と同じように、自然界と、つまり四大元素霊たちを、神として敬ってきた同じ文化的宗教的素地を持ちます。


そして、この四大元素が、2次元に存在し、わたしたちとともにいるということ。
だから、わたしたちがそこに(地下に、そして胎内に)降りてゆく意義があるということ。
それは、わたしたちの、そしてここ地上の「平和」のために。

これが、一番大切な「2次元」のテーマです。

わたしたちが、この地球に誕生できるのは、四大元素たちが、この地球を物質的にも形造って準備してくれているから可能なこと。

わたしたちが、ここで「生きて」いられるのも、四大元素たちの協力と愛の奉仕があってこそなのです。


けれど、四大元素霊たちは、いわゆる浄化され、聖化された聖霊たちとは、異なります。
わたしたちへの奉仕の見返りを必要としているのです。
それは、わたしたちから贈られる「感謝と愛」です。

わたしたちが、自分の気持ちを無視して、ストレスを溜めれば溜めるほど、わたしたちに繋がる2次元の四大元素たちは、荒ぶる神になってしまうのです。
わたしたちが、無視している混乱や、怒りを四大元素たちが引き受けなければならなくなるからです。
上の次元のしわ寄せというのは、必ず下の次元が負うことになっているのです。


だから、3次元に生きるわたしたちが、意識的に2次元に下降し、その次元に愛を届けようとすることは、四大元素たちを鎮めるための奉仕になるのです。
そして、2次元の平和は、3次元の平和を確定するものになるというわけなのです☆

ありとあらゆるところに、自然界の四大元素霊に繋がる神社を祀る日本の文化と宗教思想は、本来、2次元の精霊たちと深く感謝の念をもって繋がるということを意図した、日本人の姿勢が現れているものなのだと思います。

わたしは、あちこちの神社にガイダンスで導かれるたびに、そのことを深く感じるのです。