シェキーナーの感想です2

先日は、≪シェキーナー≫に参加させていただきまして、ありがとうございました。

≪シェキーナー≫の前に私が強く感じていた流れは、≪サロメ≫→大天使ミカエルの「奇跡」→≪アルテミス≫→≪ターラ≫でした。男性性の生まれ変わりと、それを力強く支える女性性。外側に自分の存在価値を示す、証明する必要など無いのだと、男性性が納得し、生まれ変わりつつあるのを感じています。本当の自分を生きていいという許可を自分自身に出す。今度の≪サラスバティ≫によって、それがある1つのレベルで成就するのでは?…という予感というか期待があります(今後もさらに深めていく必要はありますが)。


≪シェキーナー≫の時間では、自分の全部を認めちゃおう!というような気持ちになって、それでかっこつけずに等身大で生きて、沢山失敗して(したくはないけど)、自分を思いっきり生きよう、人生を楽しもうという気持ちになりました


すぐに不安になったり、ネガティブに物事を考えてしまう「弱さ」。高い振動数で余裕をもって、物事を愛に満ちた眼差しでみることができるような自分になるには、どうしたらよいのか模索して、今までは、この「弱さ」を消そうと、「弱さ」と戦ってきましたが、もうそれもやめよう。この弱さこそ、私なのだと思いました。この弱さの上に、私の人生を築いていけばいいや、と


そういう一種の開き直りの中で、それに抵抗する気持ちが出てきて、「でも私って本当にジャイアン(某マンガの登場人物ですが、傲慢な人の代表例として、使わせていただいてます)なんですが!?」と迷ってしまった時に浮かんだ事。

真実を探求していけば、さらに深く謙虚になる。根がジャイアンでも、真実を求めていれば、謙虚になる。慎重に行動できるようになる。謙虚なジャイアンとして生きていけばいい。ジャイアンの部分を高貴にしていくには、時間をかけなければならない。それは宇宙の魔法に委ねて、今すぐどうこうしようと思わないこと。ジャイアンを消そうとすることは、自分のペースで進もうとしないこと。それは「自分でないものは苦しみ」ということになる。ジャイアンでいいというわけではなく、単なる事実。あなたがそのまま受け入れられているということ。自我の観察者になる。

私の闇は、弱さや傲慢さだけではありませんが、それらを倒そうとするのではなく、全てをしっかり受け入れ、聖母マリアの剣で制御しながら、同時にコアの声に耳を澄まして生きていきたいと思います。


ナディや今までの金星の女神学校での学びがあっての、この境地なのかな〜と感じています。白山菊理姫のククリの魔法、素晴らしいです。何かフっ切れたような気持ちです。フっ切って、弱さでジメジメしたりしてるわけですけど、以前とは違う感じ。心が軽い気がします。弱さ(自分自身)を受け入れているからかな〜と思います。

この夏、史衣さんや他の方々のような再誕生のプロセスを感じなかった私ですが、やっぱり何かが生まれ変わったのではないかと思い始めています。嬉しいです(このプロセスで体調を崩されている方々、どうぞお大事になさってください〜)。

今回も素晴らしい機会をありがとうございました。史衣さん、高次の存在、ご参加の方々、関わってくださった全ての存在に感謝します。ありがとうございました!


感想ありがとうございます!

わたしは、けっして、○○○さんが、ジャイアンだとは思わないけれど、笑、それは低次の自己であって、誰のなかにもあるし、素直に低次の自己は、認めつつも、自分のなかの高次の自己を認めてゆくことも、可能なんじゃないかというか、そうやってバランスがとれるのではないかと思います。

大切なのは、どっちもあると認めた上で、自分(これが自我と呼ばれる部分だと思うけれど)が、低次元の自己で生きようとしているのか、高次元の自己へ向かおうとしているのか、それを認識して、ひとつの方向性のほうを、辛抱強く選び続けることかな〜と思います。


もっとわかりやすくいえば、もしも、日本からヨーロッパに行こうとして、今日は、ヨーロッパのほうに進み、明日は、オーストラリアのほうに進みと行きつ戻りつしていると、いつまでたっても目的地に着かない、だからヨーロッパのほうを目指すなら、ちゃんとヨーロッパの直通便を選ぶか、ちゃんと乗り継ぎするかということ。
あんまりいいたとえではないけれど、選び続けていれば、高次の自己にいつか到達するのは、間違いないこと。

でも、低次の自己の言いぶんもちゃんと聞いてあげないと、この子も拗ねちゃうでしょう。
言いぶんを聞いていあげれば、この子も、納得して、本当はちゃんとしたいと思っている「良い子」なんだと理解出来るみたいな感じでしょうか?

一番嫌なのは、(ジャイアンみたいな)そんな子、わたしのなかにはいないはずと否定されることなのかも、だからちゃんと認めてあげる、そして、その子の言いぶんや、何が必要なのかをしっかりと見てあげる。それが低次の自己も愛するということではないのかと、わたしは思っております♪

ありがとうございました☆