第14回ナディマスタートランスミッションスタディシェアiii(5次元バージョンアップ)

先日は(とはいえ、あまりにも変動が大きすぎて遠い昔のことのようです)、ナディ5次元バージョンアップの開催ありがとうございました。


信じがたい厳しく辛い日本の大激変を思うと、なかなか筆をとることができませんでした。亡くなられた方々には深い哀悼の意をささげます。被災された方々には、一日も早く再生への希望の道が開かれることを切にお祈りいたします。


レポートが遅くなり申し訳ありません。ナディ開催の後、地震が起きて、とてもレポートを書く気になれないという思いがしばらくありましたが、期限である一週間後には思わぬ形で構想がやってきました。けれど、それを公開することに躊躇があり、提出が遅くなりました。自分に自信がなかったのですね。そのことも含めて、次のソフィアに繋がっていることが、今はよく分かります。


私の住まいは関西以西なので、地震の揺れすら感じることもなく、日常の生活に何の支障もない毎日で、まさに関東以東の方々と今回の地震について共有できる経験が何もありません。それがある種の傷となりうることもあるのだな、と今回思いました。


しかし、私の場合、2004年のスマトラ沖地震の数日後に被災国の一国の海方面(被災地ではありません)に旅することになってしまった経験があり、その時すでに、津波の破壊力について散々思い知らされたし、津波に飲まれる死の恐怖もいやというほどシミュレーションしてしまったし、そして、やはり村全滅という事態すらあった多くの被災者の方たちへの深い同情の思いや自分だけ安全な暮らしをしている罪悪感というのも味わい尽くしました。

それでそれ以後、災害に対する恐怖をはじめとする死に対する恐怖症みたいな傾向が長く続いて、それをここ一年ほどのこちらでの集中的なワークでやっと克服できたというような状態だったので、今回は、さらに身近で起きた出来事にも関わらず、その時の追体験することは正直もうしたくありませんでした。


かといって、その恐怖や悲しみをシミュレーションを通じてでも共有しないならば、いったいどのような共感の仕方があるのか?あるいはできないということに罪悪感を感じたりただ落胆をするしかないのか?かといって、罪悪感に苦しむこともすでにエネルギーのネガティブな使い方だと知っていれば、それも真実とは思えず、正直、自分の立ち位置が分からず、何だか心の中を冷たいものが吹き抜けていって、私は私の良心を諦めてしまって、他人の庭での出来事と決め込んでしまうしかないのか、と虚しさに襲われもしました。


そのように津波の後の惨状については「スマトラ地震と同じだ」と冷静にしか見れなくも、生き残った方々の思いや助け合いの光景を見ると、やはり涙せずにはいられなくて、実際に体験した者でなくとも、感じるままに感じることも苦しいような出来事なのだ、これは、と思いました


でも、私の中では、そのような人間的な感情とは裏腹に、こんな逼迫した事態においてさえも、エゴが生まれてきて、本当に我ながら呆れ果てる思いもありました。自分のところではなくてよかったという自分勝手な思い、自分の身の上には起こりっこないというタカをくくった思い。


しかし、今思うと不思議なことですが、実は、地震の数週間前に、関東方面(被害は少ない方だけど今現在も交通網がストップしている地域)に行く機会があったのです。あまり望んで行ったわけではなかったのですが、知人親類の住む方面でもあり一人だったのもあって、十年以上ぶりの再会をいくつセッティングでき、かつ仕事先の人や地域の人々にも不思議なくらい温かく迎えられました。だから、すごくその土地に住む人々のそれぞれの誠実な人生をリアルに感じたし、また自分の人生の中での、再会を果たせた人々との温かいご縁に感謝する思いでいっぱいで帰ってきました。そして、旅の始終、高次の守りを感じてもいて、3次元を超えた経験だったという思いが残っていました。(その時にデザートローズも購入したのです。)


まさにあまり遠い過去ではないその時の幸福感と感謝の思いが、今回の地震という出来事に対して、私の良心を辛うじて繋げてくれていることに気づきました


そして、すでにヴィーナスファンデーションヒーリングで、信頼と安心のエネルギーをたっぷりと受け取っていたので、私はそのような自分のエゴを感じつつも、それはもう自分の真実ではないはずなのだ、という確信もありました

タカをくくるのではなく、仮に自分の身の上に起こることがあっても、守られているのだから、安心して直感を信じて行動すればよいということ、そして、何が起こっても、仮に万が一自分が死ぬことになったとしても、死の際においても守られているだろう、という信頼
という意味では、やはり、死の恐怖をシミュレーションして自ら恐怖心をあおる必要も感じなくてよかったわけなのです。


とはいえ、そのようなエゴが湧き上がってきたということは、まだ自分の中にそういう思念があるということだし、おそらく無事だった地域の負の集合意識の中にも同じようなエゴがあると感じたので、まず私にできることはそのようなエゴの浄化と、死の恐怖、失う恐怖を乗り越えられるほどの信頼感を保つことだ思いました


が、このような日本のリアリティがすべて覆るような出来事が起きて、みなが目覚めないといけない時期なのに、この期に及んで、しかもやっとここまで歩みを進めてきたというのに、そのようにブレてしまっていた自分には本当にがっかりもしていました。


そのような不安定な自身の状態でありつつ、原発の動向についてはハラハラしながら行方を見守っていました。地震の時に煙突での高所作業中に数名の方が落下して亡くなったのが原発の施設でのことだったと後で知って、まさに警告だと思いました。


原発はいまや日本中にあって、まだ増やそうという動きがある中でのこの非常事態です。この事態を前に、私のエゴ(善意を装った)はまたも暴走しました。


原発推進派の人たち(現場には行かない上層部の、原発で最大限利益を得ている人たち)は、今回水素爆発だけですんだとしたら、そのためにどれだけの作業員が命がけで(命を落とした人もいる中)国民を守るために犠牲になった人がいたとしても、平然と、「やっぱり原発は安全、今回地震で都市部まで停電して、都市部の住民は電気がどれだけ必要か理解したでしょう、だから原発はやはり必要なのです」と言ってはばからないだろう。ということは、やはりチェルノブイリのような経験を実際しなければ、その人たちは原発の恐ろしさを永遠に認めないのでは?と諦めのように思ったのです。


しかし、それでは、原発事故が起きる必要があることになってしまいます。私は自分の考えが恐ろしくなってきました。目覚めることのできてない、原発から遠い地域の負の集合意識をその点にも感じました。自分に影響がないからこそ、カタストロフィ的な発想に陶酔してしまう


しかし、その恐ろしい考えも、実は自分の無力さに捉われているからなのだと思いました。自分たちの力では原発に関して巨大な利権を持つ人々の支配から逃れられるはずはない(だからこそ、原発に依存しなければ快適で知的なような生活を保てないと信じてしまうほど、電気を多用せざるをえないような生活様式を刷りこまれ、原発のあることにみな甘んじてしまったのだ)、と思いこんでいたからです。


そのことに気づくと、それも結局被害者意識に過ぎないのですが、権力や支配に対する強い怒りが湧いてきました。


そして、その怒りが、冷却されきらずに今にも巨大な破壊作用をもたらそうとしている核燃料の姿とダブったのです


そして、それは、実は5次元ナディを受けての瞑想中にも出て来た怒りなのでした。事前にヴィーナスヒーリングを何度か集中して受けて出て来たのは、ずっとインナーチャイルドの悲しみばかりでした。けれど、5次元ナディを受けてからのコールインでは、すっかり忘れ去っていた、数少ないけどないわけではなかった子ども時代に他から守られた経験を思い出し、やっとインナーチャイルドが満たされ始めているのを感じることができました。何よりの安心感


そして5次元ナディで思い出した自らの完全性。
しかし、瞑想の最終地点で、悪魔的なインナー少年(?)のビジョンが出て来て、「ボクの怒りは治まっていない!」と言い残していきました。守られてもきた子ども時代を理解した女性性の私は、ヒーリングと5次元ナディによって満たされ、もう社会に対する恨みは抱いていませんでしたが、インナー少年は、自分自身であるインナーマザーに、まだ怒りをぶつけきているのです
それはまぁ、6次元バージョンアップがまだ開催されていないのだからある意味道理だとも感じ、そのまま保留にしていました。が、この少年君の怒りが、閉じ込められ爆発を許されない放射能とどうしても重なったのです。


しかし、今回の地震で、多くの日本人の意識はすでに目覚めているはずなのです。
だとすれば、原発を使用しない方向を目指すためには、それが可能であるという信念と信頼を持って一人ひとりが声を上げればいいのであって、決して原発の恐ろしさを現実に思い知らされなければ実現しないことなのではない。すでに目覚めているのであれば。少なくとも、私はそう信じて、これから生きていきたいと思いました。


そして、私たちの怒りの象徴である核燃料を、その熱を鎮めようと命がけで作業に向かう人たち。
志願して行った方はなおさら、原発を決して憎んではおらず、その仕事に誇りを持っていました。
そして、送り出す家族の方々。覚悟はしつつ、止めることもなく、「頑張ってほしい」と。
まさにキリストとマリアを感じていました

キリストは人間的には母親を悲しませたと思うのですが、その罪と悲しみを互いに乗り越えた存在だからこそ、キリストとマリアであるのだ、と思うのです。
そしてそのエッセンスは誰の心の中にも眠っているもの、そして今こそ呼び覚まされつつあるもの


そのような象徴的な光と、そして自分の人生を具体的に彩る様々な光を感じて、私のエゴやエゴにすりかえられた絶望感は癒され、改めて守られているのだと実感しました

この感謝の気持ちを忘れないようにしたいと思います。

そして、私自身が不完全であっても、自分の中の拮抗する力とそれらが推し進めて行く道は、自ら意思する限り、守られ導かれていることを自らが感じることができるはずなのであり、そのことが私の完全性を示しているのではないか、と思いました。そして、他の人もみなそうであるのだと


今回、未曾有の災害をみんなで目の当たりにしたというこの時に、このような自分のエゴや絶望感に触れるのは心苦しくもあり、怒りを買う可能性もあるのではないかと思いましたが、こういう時だからこそ同じようなエゴに苦しむ人もいるのではないかと思い、筆をとりました。

今回もたくさんの愛と導きをありがとうございました。


レポートありがとうございました☆
わたしは、災害を経験していないことが、傷になる、罪悪感になるという感覚は思い至っていなかったのですが、こちらのレポートを拝見して、そういうかたもいらっしゃるのかもしれないな〜と思いました。

けれど、それは、不要なものであると思います。

みんな順番で持ち回りしているのだと思います。
(大きな大きな輪廻転生といわれる莫大な時間の流れのなかで、もしくは次元の行き来のなかで、という意味です)
助けられたり、助けたり、今回無事だったかたは、助けるほうに回ればいいのです。
いつかは、助けられる側に回るのですから。
そうやって、すべての経験の意味を少しづつ理解してゆくのではないか?
わたしは、そう感じております。

恐怖を追体験することも必要ないような気がします。
そのときがやってきたときには、もうその渦中にいるのですから。
でも、よく言われているように、体験していないときが、わからないだけに一番怖いのかもしれませんね。

素直に助けたい、助けられるというサイクルに入れない、入りたくないという方も、もしかしたらいらっしゃるのかもしれませんが、そういう方こそ、自分を責めることなく、ありのままで、今はまだいいと、そのまんまを受容していただけたらと思います。
成長は、ゆっくりでもいいのですから。

でも、総じて、日本のみなさん全員の深いところで、何か新しく信頼できる温かいものが、産まれてきているように、わたしは感じております。

さらに、一刻も早く、被災地で苦しんでいらっしゃるかたに、元通りの生活がもらたされるように強く願っています。