≪ターラ≫の感想です7

大変遅くなりましたが、ターラのレポートをお送りします。

日にちが経ってしまったので、当初のことはあまり覚えていないのですが、翌日はちょっと身体的な影響が大きかったです。トーンサラウンドを受けたような虚脱感というか。フォローアップもこれまた同様に体感がすごかったです。

レディ・ナダで受け取ったことは、調和のピースになることでしたが、最終的に、ピースであることは、つまりは個性を大切にすること、という次なる課題を示唆していて、それがターラだったのだと思いました。

で、前後して見ていたテレビ番組で、海外の小さな島に永住目的で移住した日本人のご夫婦が、当初は住民の偏見に遭い苦労され、地元で受け入れられるまでに15年かかったというお話でした。それだけに、今の生活をとても慈しんで楽しんでおられる様子でした。

私も自分の夢に向かって進んでいるわけですが、苦節何年というほどもないのに、少し躓きがあるだけでくじけているな〜と思いました。すぐ成功するだけがいいことじゃないと理解していながら、実際に自分が経験すると戸惑うのです。でも、これが私の夢として真実で、他の道がそうでないと感じるなら、失敗してもくじけないで進んでいいのだ(許可)と思いました。

真実の道だからこその険しさを受け入れなければいけない時もある。それは時にハタからみたら虚しい苦闘かもしれない。虚しいだけなのか、その先に何かを見ているのかは本人にしか分からないし、真実の道であっても途中で自分が疑って諦めたら、それこそ永遠に偽りになってしまう。

ターラのエネルギーの中で私たちが自分自身に見出す個性は、すごく奥深くに秘められていて、それは2次元4次元の苦しみや悪が愛の中に変容した姿としてこそ、現れるものなのでしょう。だからこそ、自分の中の苦しみや悪を恐れるのと同じくらい、真実の自分を恐れるのではないでしょうか。

私は、フミさんご存知のように、ターラの後、「超然」とは正反対のことをたくさんやらかしました(苦笑)。まず、今まで、怒りを悲しみでフェイクしていましたが、はじめて真実に怒りを表現してしまいました(本当にキレて、自分でもコントロール不可能な状態)。フェイクの悲しみを真実の怒りが上回ったのです。

そこに論理的な正しさはまるでなかったし、超然のかけらもありませんでしたが、それは私の真実だったので、私は自分の怒りをきちんと感じ放出することができ、なぜかそのことにとても満足しました。今まではやせ我慢で超然であろうとして、失敗して悲しみでごまかしていたので、自分の感情がよく分からなかったのです。怒りをきちんと感じてこそ、その浄化を始めることができるんだ、と思いました。 

その後、統合ワークの件で、ターラのエネルギーを得てこそやり遂げられるはずの、自立の課題を乗り越えられず、超然どころか勢いで突進して壁にぶち当たって退散、という失態をやらかしました。

が、悲しみのフェイクをやめようと思ったら、まずそのような失敗を、自己憐憫からくる惨めさではなく、あるがままのみっともなさとして受け入れる必要があったのです。だから再び失敗する必要があった。言い訳みたいですが。失敗をそのように受け止めてこそ、自分の中にうっすらと超然の萌芽を見出したのは意外なことでした。

矛盾していますが、今も自立に成功していないにも関わらず、今の私から見ても、その時までの自分の堂々巡りがびっくりするほどなのです。

そして、またワークの答えがさらに分からなくなった段階で、今回はそのことに不安ではなく自由を感じ始めたのです(まだそれが嬉しいわけではありませんが。苦笑)。

なりたい自分というのを「あるべき自分」だと思い込んでいたのです。自由の中でなりたい自分になることが真実の自分なのに、あるべき自分を探していたので、答えが分からないことが不安だったのです。恐らくまた間違いもあるでしょうが、その軌跡こそユニークなのだから、真実であろうと決意していれば、自由に進んでいいのだと思いました。

何故か、今回の失敗について、ターラはきっと共感してくれているような気がしました。なぜなら、ターラは真実でないものも深く見て聞いただろうからこそ、真実を得たのであるし、真実を得たからこそ、真実でないものを知ることもできただろうからです。

そして知るべきことはすべて自分の中にあり、外の騒音に惑わされていては見えてこないもの。

ここまでの学びを経て、外の騒音に以前より動じなくなりましたが、動じないことが完成だと思い込んでいたせいか、ずっと受身であるという態度は変わっていませんでした。だからこそ、どこかで、私の生活は変えることはできない、という密かな絶望感が拭えないままで、時に疲れてしまうことがありました。

自分の個性を大切にするなら、何か逆のことを言われても動じない、だけではなく、もっと自分を主張していいし、相手に合わせる必要もないのだ、というごく当たり前のことが、偽りの達観に覆われて盲点となっていたのです。

そのように気づいて、私はある決意をしましたが、まだ実行に移していないので、これから頑張ろうと思います。が、そのように決めてから、かなり物事は動いていますし、自分で決めて進むことが苦ではなくなってもきました。

本当に、自分で決意することの大切さを知ればしるほど、それに気づかせてくれた自分の失敗には感謝していますが、そうであればあるほど、その失敗の大きさに気づかされもしました。失敗転じて福となる、と言えば、聞こえはいいですが、自分で気づいて歩まなければいけない段階をひとつ飛ばしてしまったのですから、本当に失格だったのです。

が、「完璧でなくていいのだ」というナディのガイダンスの通り、また真実へと向きを戻した私に、その後もたくさんの恵みがありました。真実に生きるって幸せだな、と安心感の中で思えたのです。だからこそ、真実でなければいけない、という焦りや義務感を、真実でありたい、部分的ではなくて全面的に真実であっていいんだ、という許可へと変えることができてきています。

これで謙虚にならないわけがありません。私の男性性は、失敗を自分自身の失敗として認めることが今まで(過去生でも)できなかったのだろうと思います。女性が修行して解脱できるわけがないと馬鹿にしたのは、男性性の私(修行好きだけど、征服欲でやっていた)もそうであったのかもしれません。

でも、許されていました。だから、今、強くあれるからこそ慈悲深い、というターラの慈悲の部分もとてもよく分かります。

そして、謙虚でありながら自由に生きることが矛盾しないことも理解し始めました。

で、私もすごくリアルな夢を見る機会が増えたのですが、最近の夢はすごかったです。

何となくレムリア水晶を抱いて寝たら、意外なことに悪夢を見たのです。邪鬼というか餓鬼というかのような、不気味な生き物が布団の周りをぐるぐる回り、最後に水晶を胸の上で握っている私の手を、布団の上からガバッと掴んできたのです。恐怖にかられましたが、これは試されている、私はもう強い、もう負けない、と思い、「もうどこかへ消えて!」と叫ぶと、それは消え去りました。夢にしてはリアルだったし、それはロードオブザリングのゴラムみたいでした(笑)。不気味な容姿で、自分より強い存在であるかのように振舞うけれども、「真実」には勝てない生き物、あれは私自身の悪だったのではないかと思います。だから、最後にもう一度私の中に戻ろうとしたのではないかと。

それでスッキリしたかというとエネルギー的はそうなんですが、現実的には、決意した途端に、私が曖昧にしてきた多くのことのツケも回ってきたという感じで、かなり状況的に追い詰められました。もう少し早く気づいていれば、ここまでの状況に自分を追い込むことはなかっただろうと思うと、やっぱりこれまでの自分の甘さが身にしみて理解できました。

だから、失敗して学んだからこそ引き受けなければいけない責任を、きちんと引き受けようと思いました。それは、これまで引き受け過ぎてきたことをきちんと断るという方向であったり、逆のパターンでは、正義を貫こうとしてアクシデントで損失をこうむってしまったけど、自己責任で処理するとか、であったり。今までは、こういったことを、私は「何で私がこんな目に」という恨みの感情、自分のせいではないという言い訳にばかり、エネルギーを使っていましたが、自分の責任として向き合うことでこそ、何のためにそういう出来事が起こり、どんな学びがあるのか、理解できるようになってきました。

これからもこういった行動パターン思考パターンをひとつひとつ覆していくことは、相当な心の強さ、厳しさ、自分への愛を必要とすると思われます。でも、今は、もっともっと強くなれる可能性を信じられるし、そのために癒しをもっと受け取りたいと思っています。

最後に、ふと思ったことは、統合ワークでの私の失敗について、甘い考えで望んだから失敗しても仕方なかったのだと、まだ少し言い訳したい気持ちが今までまだあったのですが、よくよく考えても、その時の私は、私なりに全身全霊だったということです(苦笑)。「間違っても大丈夫」ということを本当に知るためには、ただ間違うだけではなく、真実への道の中で本気で取り組んだことでこそ、間違い、許される必要があったということのようです。

だからこそ、かつては馬鹿にしていた女性性の真実の前で、謙虚に安らかに頭を垂れることができるのであり、そのように愛に屈服した男性性に、変わらぬ慈愛を注いでくれるのもまたターラなのだと思いました。(これまでの私は、単に女性性を憎んでいたというより、女性性の立場が悪くなると男性性に逃げ込み、あるいはまた逆のパターンを常にとっていました。)。ここ最近、身近で、状況に安らかに屈服する男性の謙虚さと、自分に向き合うことに苦闘する女性の懸命さとを目にして、そのどちらにも共感し、自分のこともさらに許せるようになったというわけです。本当に、すべての出来事に意味があるんだ、としみじみ感謝の気持ちが湧いてきます。

2月最終日の今日書き上げようとして、ちょうど雨が降っていて、そのような思いに浸っていました。

今回もまとまりがなくてすみませんでしたが、高次の愛に、フミさん、参加者のみなさまに感謝いたします。


レポート提出ありがとうございます。
≪ターラ≫は、深いエネルギーだったし、それゆえに消化に時間がかかるのだと思います。
まだ提出されていないかたも何人かいらっしゃるかと思うのですが、全く焦らなくて大丈夫です。
自分のペースで、消化できたな〜と一区切りついた時、そんなときに余裕があれば、レポートを書いてください。

さて、大きな学びを乗り越えたあと、本当にいろいろな気付きが、ターラの助けと慈愛によって、深く○○さんに沁み込んでいるな〜と、わたしもほのぼのいたしました。

間違いって、本当に、これからの歩みを助けるために必然で起きてくるものであるような気もします。
魂の歩みは競争ではないし、自分だけの道のりが、すなわち宝物。
これからが楽しみですね♪
いつも応援しています☆