第12回ナディマスタートランスミッションスタディシェアiiiiiiiiii(冬プロジェクト4次元)

今回レポートが再提出となりました。はじめてのことで、どうしたことかと最初は焦りましたが、「再考するか、苦しみだけという内容ならお休みもありです。」と言われて、まずそこからして分かりませんでした。


もともとのテーマは、自分の限界を超えて一歩踏み出す勇気を持てたことについてなのですが、この一歩に伴って喜びや信頼が増した一方、識別を要するテーマが倍増したので、アタフタ状態に加えて、自分自身であれない苦しみとは違うけれども、自分自身になろうとする段階での苦しみ(どなたか書かれていたように、本当は産みの苦しみなのであるし、苦しみというより困難さですよね。)に圧倒されて、「成長するためには苦しくなければいけないんだ!危険も犠牲も覚悟して決意しなければいけないんだ。」という方向に迷走してしまったのが、これまでずっと課題となっていた、「苦しみを理解してほしい」という後戻り(依存)の結果を生んだということのようです。


しかし、不思議なのですが、ナディの後一週間までの出来事や見聞きしたものがすべてそのような苦しい内容だったんです。ナディの前から読んでいたのは、以前ブログで取り上げられていたパウロ・コエーリョの「ポルトベーロの魔女」で、たまたま見た映画は「男たちの大和」、そして、一週間後の29日は亡き尾崎豊さんの誕生日で、ちょっと追悼モードになったりもしていました。そのどれも、自分自身を生きようと全力を尽くしたけど、社会の犠牲になり夭折したというストーリーにあてはまります。そのせいか、自分自身をまっとうするためには命がけの決意をしなければいけない、と考えてしまいました(メタファーのつもりではあったのですが)。


が、レポートのダメ出しが出た30日は、秋篠宮様のお誕生日ということで晴れやかなムードでしたし(なんと、尾崎さんと同い年でした!)、「ポルトベーロの魔女」に続いて読み始めていた同著者の「アルケミスト」を読破しましたが、同じく自分の霊的な道を突き進むお話ですが、同じ作者なのに一転してとてもポジティブなエネルギーが流れていて、私がスピリチュアルに目を向け始めてからの変化のポジティブな方の側面の霊的な秘密が如実に語られていて(涙)、「踏み出してよかったんだ!」とゴーサインをもらえたように思いました。ダメ出しされた方のレポートで散々語った「命、家族」のテーマについても、「アルケミスト」では、「砂漠の女」というテーマで、とても爽やかに語られていました。


なので、レポートをお休みするよりも、やはり再提出することにしました。すると今度は翌日12月1日は、「宇宙戦艦ヤマト」の公開日というではないですか。大和が宇宙戦艦になってアセンション?(駄洒落みたいですみません) そんな感じでとにかく、エネルギーの変化に気づきなさい!とサインをもらったような。


恐らく、依存から脱していく段階の、とりわけ大きな一段を越えているところなのでしょう。これまで、私は高次に対して不信を抱くこともありましたが、同時に過信する傾向も強かったので、3次元ではダメ人間だけど、高次に繋がってさえいればきっとうまくいくはず、とスピリチュアリズムに依存してしまい、3次元的なテーマから常に逃げてしまっていました。だから、真剣に霊的な成長の道を歩むと決意した以上、まずは完全に3次元のレベルに留まってすべてを受け止める、というのが、ナディ後の最初の一週間で、ダメ出し以降に受け取ったこととしては、道を進むことで生じてくる恐れがどんなものであるか気づいたのなら、その恐れが幻想であることにも気づきなさい、ということではないかと思いました。


おそらく、意識的には顕在化されていないですけど、「真実に生きたら殺されてしまった(あるいは家族が)」という過去生があるのかなと思います。でも、結局は「今のこの生で実際に真実に生きようとすると、どのような3次元的な恐れがあるのか」、ということに気づいて手放していくことでしか、過去生を癒すこともできないのだろうと思いました。


思ったのは、恐れの感情というのは、本当にリアルだということです。これらの恐れが自分の現実そのものだと思い込んで生きてきたし、恐れから自分を守ることが行動の指針になっていました。他の人がどんなに楽天的に考えていて実際そのように生きていても、関係ありませんでした。で、今までも癒してきたつもりですが、新しい段階に入るとまた新たなレベルで同じ恐れが繰り返されているなと気づきました。でも今は、気づけることに感謝です。で、こんなにリアルなのに、これらすべて幻想なんだな〜、でも分かっているのに、やぱりリアルなんだな〜、と思うと、すごく不思議な感じなのですが、これらを手放していけば、今度は信頼や喜びがよりリアルに真実になっていくのだとしたら、とても楽しみでもあります。


不信でもなく、過信でもなく、信頼して、危険はあるけど、安全に通り抜けられるように。フミさんに言われたように、「マスターの意図は、苦しまないように準備するということ」だから。まさに、月の女神学校vol.3の出番だと感じています!(予告前から感じていました。笑)


正直、9次元の時に「真剣さがカギ」と言われても「地獄を経験している時に、それは幻となる」というのを読んで、「ということは、地獄を経験しなきゃ学べないんだ〜」と逃げ腰で、真剣になれないままでした。いや、真剣なつもりでしたが、行動は何も変わっておらず、ロゴスとしては片鱗が見えていた真実がリアルとして体現されることはなく、まさに中途半端な真実となってしまっていました。実際、「全部が真実なんてどうせ無理だから、一部だけ真実でもたいしたもんなんじゃないの?」とタカをくくっていたのです。完全にルシファーですね。


でも、今回、自分の力で決意ができたから真剣になれて一歩踏み出せた、というより、天から奉仕の機会を与えられたから、その恵みを受け取ろうと決意できたと同時に、統合ワークでの愛の鞭のおかげで本当に真剣に決意するとはどういうことなのか理解できたという感じで、やっとやっと踏み出せたわけなのです。だから、自分の力ではなかったのであって(その準備に努めてきたのは自分ですが)、自負心よりは、ひたすら天に感謝という感じなのです。


で、実はこれまでは、自分の真実の道が分かったら、やっと一歩踏み出せる、踏み出してよい、ということだろうと思っていましたが、違いました。踏み出したから、やっと真実が少しずつ見えてくる、道を歩みながら、道を探すのだな?ということなのでした。
深い決意の後には、至らないながらも謙虚に慎重に歩むのであれば、その中で、奉仕しながら(与えながら)学ぶ(受け取る)ことが許されているんですね。
なんてありがたいんでしょう。コエーリョさんの著作でも、「マスターになれたから弟子に教えられるのではなく、弟子に教えることからの学びでマスターになれる」というようなことをよく書いてあります。(私は教える仕事ではないですが)


「覚悟を決めている人は、最後まで目的を優先する。(だから色々障害になることが起こっても揺らがない勇気を持てる)」という言葉を後から見つけました。これまでは、結局のところ目的は愛なのだとしても、自分にどのようなやり方があるのか分からず、ある方向を定めて進むことが自分にとって正しいことなのか間違いなのか分からないのに、覚悟を決めて進んで、実は間違っていたらどうしよう、と思っていました。でも実は、真実でなければ、本当には覚悟は決められないものではないか。覚悟が決められたということは、それはその時のその人にとってはやはり真実なのだ、と思いました。そして、突き進んで行くことの危険の中で、慎重に識別する術を、つたないながらも4次元ナディで学んでいるのですから。


で、まだ真実が見えていない(と思っていた)のに、一歩踏み出した実感がどこにあるのかというと、それに関しては「ポルトベーロの魔女」を読んでいて気づいたのですが、真実とは、自分の能力の限界(自分が作っている枠)を超えたところにあるもの、超えさせるもの、だということです(スピリチュアルに限らずですよね)。もし真実が自分の枠の中にあるのなら、それこそすぐ見つかるはずですが、そう簡単な話ではないのは、そういうことなんだと。


で、自分の限界を超えてしまうと、もう自分の力では制御できないので、だからこそ、そこで出会う未知の力を識別できるように、善なるものへと繋がれるように、準備しておかないといけないのですね。タイミングのよすぎるナディ開催でした。それこそ、未知であるだけに、偽りの天国に繋がってしまう危険もあるからこそ、恐れも大きいのですが、その危険を通り抜ける勇気がなければ、自分の限界はこえられないし、霊的な道に入ることはできないのでしょう。そして、その勇気を与えてくれるものこそ、高次へのまったき信頼なのだと思います。


そして、まさに自分の力ではないからこそ、信頼と清らかな心しか自分の持つべきものはなく、他に支えとなるものも何もないわけで(資格や地位や賞賛など)、だからこそ不信・不安にかえって強力に引き付けられる危険も大きいのであって、常にハードルは上がり続けるのだろうと思います。でも、勇気をもらって、これからももらい続けるだろうからこそ、後戻りせずに前を向いて進みたいと思います。プレッシャーもあるけど、自分の中の悪をすべて信頼へと変えていく鍛錬だと受け止めています。


が、清らかな心と単純に言っても、私のような人間には簡単なことではなく、実際には、サラスバティを経て清らかであろうと意思できるようになってから、かえって悪魔のささやきは強くなりました。人を利用したいという気持ちがどうしても湧いてくるのです(おそらく、利用されてきたという被害者意識から、報復したいという欲求がまだ癒されていないのでしょう。)。
最初はそれで「だから私はルシファーなんだ」と罪悪感にさいなまれて結局くじけていたし、こんな私が一歩踏み出していいのだろうかと自問もしましたが、今回のガイダンスでルシファーについて詳しく語られていて、すごく腑に落ちました。それらの悪魔のささやきが、私を傲慢さから引きとめ、謙虚さへと繋ぎとめ、自らのさらなる進化を求めさせていたのだと分かったからです。


しかし、傲慢さから引き止められて逆に卑屈になってしまうのもまたルシファーの罠。ですが、私たちがまだ天の助けを求められない時には、傲慢さから他から奪い続けないように、あるいは卑屈さから自らを死に至らしめないように、互いに守りあってきたのもまた真実です。しかし、そのどちらでも、どちらでもなくても苦しいのは、それがルシファーからの影響だけ受けているからです。そこへ、愛と信頼という光が差し込む時、傲慢さと卑屈さは謙虚さと自信という真実の姿を現す。悪である物のどれでもないから中庸と言ってみても、そこに愛がなければ、真実ではなく、苦しみは決して消えない(悪を避けるだけでは善になれない)。論理というものがいかに公平で、様々な弊害から守ってくれるとしても、苦しみを癒すことは決してできない。愛だけが、すべてを可能にする。


仏教の(ですよね?)「空」という概念を、よく分かってもいなかったのですが、「空」が「空虚」だったら耐えられないなぁ、などと考えていたことがありました。(本当の意味はもっと深いらしいですね。)思ったのですが、空が空虚だとすると、神は人間をネグレクトしているという解釈になるのではないか。そして、人間の心に一番大きな傷をもたらす行為がネグレクトではなかったでしょうか。そのように思い込んで虚しさを生きている人は多いし、私もその一人でした。でも、本当は、「空」は大いなる愛で満たされていて、人間は神にネグレクトされているのではなく自由意思を尊重されている、というのが真実なのですよね。善きものを悪しきものと思い込んでいるいい例かもしれません。


あと私は、親のダブルバインドな言動の中で育てられてきたせいか、論理の矛盾に敏感というか心理的な反発が大きい方なのですね。言葉をハートで受け止めるのが苦手で、論理でまず解釈しようとしてしまうんです。だから、この一連のワークで語られていること、やり方など、論理だけで解釈しようとすると、実は混乱するのです。ハートは理解しようとしていても、頭の方で、「真剣に本気でというけど、自分に優しく無理しないでと言ったじゃない」であるとか(苦笑)、ハートの意思と違うところで勝手にダブルバインドの被害妄想に陥って言い訳にしてしまって、自分で自分のハートの矛盾に苦しむという、まさにルシファーそのものなのですが、論理につけこんで来るのもルシファーの得意技なのかもしれません。でも、言葉が論理だけではなく、愛で満たされていれば、つまりロゴスとハートが一致していれば、そこにあるのはただ正論とかではなく、息が吹き込まれた、ハートに響く言葉となり、ハートの開かれた人はハートで真っ直ぐにキャッチできるはずなんですよね。

でも、もし真っ直ぐキャッチできなくても、焦る必要はないのだと思います。自由意思で、好きなだけ疑って検証してて納得がいってからで、遅くないのだと。でなければ、無理矢理ハートをこじ開けることも、それがいかに善であっても、自分で自分に強いるのも、他人に強いられるのも、そういうネガティブなエネルギーが入ってしまうからです。それより、真実を受け入れられない自分の感情をありのままに見ることの方が、遠いようで確実なんですね。


そしてさらにいえば、真実だからこそ、論理だけで解釈すると矛盾を含むし、といえども、ある程度までは論理的な観点から愛と愛でないものの識別も実証できるような予感もするけれども、実際には、真実が語られている地点というのは逆にお伽話風のことが多いような気がします。しかし、それもまた秘儀として守られているからなのかもしれません。愛を秘儀として、ただ論理からではなく実践から学ぶためには、愛のダブルバインド(「愛の鞭」ですね)を経験して、その中でハートで真実を掴んで行くのが、安全なやり方であるだろうからです。といいつつ、まだまだ辛い愛の鞭ですが(苦笑)。


そして、光が強くなれば、対するルシファーの力も強くなるけど、それを乗り越える力もまた強くなる、そうやって成長していける。ということは、ルシファーがいなければ、やはり私たちは成長できないのです。「すべては同じ手によって書かれている。」(「アルケミスト」) そして、ある程度成長していたとしても、「神のエッセンスは常に上昇し続けるもの」であるなら、進化をやめてしまったら、やはり慢心してルシファーの誘惑にはまってしまう。私の場合、慢心し始めた頃に必ず転ぶし、浮上する前にも必ず転ぶので、それがかえって無理なく謙虚であらしめてくれていて、逆にいつも感謝です。だから、自由意思の中で孤独にルシファーと戦っているようで、実際は背後でたくさんの助けを送られてもいるのだなぁと。


で、進化へと踏み出した後の苦しみが自分自身であれないことの苦しみと違うのは、必ず乗り越えられるということです。自分自身であれない苦しみも、もちろんいつかは(生まれ変わってでも)乗り越えなければならない時が来るでしょうが、それまではずっと同じループの中を回っていなければいけません。一方、進化の苦しみは常に、上昇するという喜びを伴う結果をもたらすのです。

本当にすべては愛だな〜、と、自分の力ではない助けがたくさんあってここまで来れたことに本当に感謝なのですが、今までは、この感謝より怒りの方が大きかったために私のエゴは早急な自己実現を求めていて、謙虚に慎重に丁寧に歩まなければいけないところを、悪魔的な言い方をすると「面倒くさい」と思っていました。
ある地点で、自分のダメさはとことん理解したし、真実がどういう地点にあるのかも見当がついたけれども、その道のりの遠さに呆然として、本気で引き返そうかと思いもしました。戻っても地獄というのも分かっていたのですけど、これまで自分を犠牲にする形でしか忍耐力を使ってこなかった私にとっては、成長のための忍耐もまた地獄のように感じられたのです。


無理矢理にでも引っ張ってくれればとも思いましたが(もちろんそうではなく)、それがいかに愛でも善でも無理矢理に従うのだとしたら、何のためにだろう?と思いました。何のための愛なのか、欲望の充足?不安のない人生?自分を犠牲にして他のために尽くす?どれも真実ではなかったと分かったから、ここまで来たのではなかったかしら。もう逃げるわけにはいかない、と思いました。「私自身」がこれが愛への道だと信じるから、従ってみよう、と思いました。そして今は、道のりの遠さは変わらなくても、その道のりの本当の楽しさがちょっとは分かって来ましたし♪


そういう過程を経て随分助けてもらって、忍耐力も以前よりは少しはアップしたかなと思いますが、今も「面倒くさい」気持ちに引き込まれそうになることもあります。でも、そういう時には月の女神学校のワークがありますしね。気持ちはすっきりしつつある一方、体調不良が続いているのは意識化されていない抑圧を表しているのかもしれないし、まだまだこれからも癒しを受け取りながら繊細に気づいて行きたいと思います。


もともと優柔不断な私には、常に自由意思で選び取ることのはまだまだ難しいですが(苦笑)、つまりは天からのメッセージ、サインに注意深くあり、識別する力があれば、自然とその道を進んでいるのだろうと思います。ただ、進んで行く中で何か批判を受けるようなことが起きた時に、自分に間違いがあってそれを警告されているのか、真実に進んでいるからこその通過儀礼として試されているのか、というところも、識別が難しいですが、それも、自分の愛と真実に寄り添い、ルシファーの影響を脱ぎ去っていればという観点から見れば、きっと見分けられるのだと思います。たとえまだまだルシファーの影響を受けているとしても、愛と真実もそれ以上に強く自分の中で育っているのだと信じればこそ。いずれにせよ、その批判等も、自分を再確認するいい機会となり(そして、自分の側にも至らない部分があることを理解もできる)、真実であることと他への配慮がより高められていくことになるのだろうと思います。


以前はテレビで芸能人の事件等を見ると、もともと有名な上に事件で有名になってしまったらもうおしまいなのではないかと思ってしまっていましたが、今は、どんな人にもリベンジのチャンスはある、と長い目で見れるようになりました。だから、あまり他人をジャッジしなくなったなぁと思いますが、本当のところは、今の段階では自分を浄化していくので手いっぱいで人を批判している暇はない、ということです(苦笑)。


今回は、家族から出たキーワードは、「神話」でした(なぜかいつもキーワードを発する人が。笑)。自分の神話を
生きるということは、自分の中のキリスト(神)を目覚めさせていく過程の、固有の愛の物語を生きることですね。その物語はそれぞれ固有ではあるけれども、実は構造的には決まっていて(だから、運命が決められているのではなく、運命というものの構造が決められている)、誰の物語にも等しく「つまずき、目覚め、試練、恩寵、通過儀礼、祝福」等(?)が含まれているのだと思います。歩き尽くせば迷宮を抜けられるというお話もありましたし、歩きつくした先には祝福が必ずあるという、奇跡だけれども、奇跡は起こると信じていいのですね。すべては愛の物語。それ以外はない。


で、iのレポートの方が引用されていたシュタイナーの言葉、「良き人間としての安住の地を得たい。そして、すべての人間を愛する思想を伝えたい。そう思うことが、今大切なのではありません。社会過程の中に生きて、悪しき人類ととともに、悪しきその一員となることができるように、自分の才能を発揮することができる、そのことが大切なのです。悪しき存在であることが、いいことだからではなく、克服されるべき社会秩序が、わたしたち一人一人に、そのような生き方を強いているから、そのことが大切なのです。」の部分(引用の引用ですみません)ですが、たしか私も最初読んだ時は、とても心を打たれたにも関わらず、実は意味がよく分からなかったのです。


今回どうしても気になってずっと考えていたのですが、つまりはこれは、ルシファーを善に導く力について説明しているのではないでしょうか?そしてそれがキリストの生き方であり愛であったということではないかと。まさに悪しき社会秩序の中で裁きを受けたということは、その中で生きていたという証しであるし、そしてそのことによって、キリストを裁いた側の者の中で、後になって回心した者もいた。

そのことが、実はキリストの一番の功績だったのでは?もともと善良な人の支持を多く集め、善の側の人数や社会における善行の数々が量的に増えたことでその功績が讃えられるだけではなく、というか、それ以上に何より。数が少なくても、社会がどれほども変わらなくても、ルシファーであった者を上昇の道に導くことこそ。


もちろん、これを成すことが可能なのは、フォースの力ではなく、愛の力。愛だけ。愛だけで、ルシファーが「自由意思で」上昇を始める。それこそ、ルシファーこそが、愛から一番遠いという苦しみを、一番に引き受けた存在であるのだろうから。

それをも癒せるのが、キリストの愛の力。それほど素晴らしいエッセンスを、私たちがみな持っているなんて。現実には、すごく高度な愛の形ではありながらも、実はとても単純に純粋な行為にその力が宿っているのかもしれません。私のようなひねくれ者にはとてもとても難しいであろうことは想像されますが、開き直らず、純粋であれるようたゆまず祈りつつ邁進していきたいです。


あと、余談ですが、色々改善されたことの中では、ここ数年高所恐怖症と動物嫌いになっていたのですが、最近全然平気になったという不思議があります。今回、テレビで日本の女性ロッククライマーの方を見たり、動物と人間のふれあいの話を見たりという機会も多かったので、宇宙の色んな側面をもっと信頼していいよ、というサインだったのかもしれません。そして面白いことに、お掃除「代行」の営業電話がかかってきて、いつもすぐ断るのですが、今回はやけにしつこく勧められて、思わず、「それが今一番自分で取り組もうとしていることなのです!」と、宣言してしまった、というエピソードもありました。


今回も深い愛と(愛の鞭と。笑)貴重な学びの機会を本当にありがとうございました。いつもながら荒削りに語りまくってお恥ずかしいです。再提出だからこそですが、たくさん天の助けがあって、待望の月の女神学校vol.3というご褒美もあって、みなさんのレポートも大変参考になりまして、ありがとうございます。でなければ、本当に書けないままでした。そして、フミさんのナディ実施の取り組みにはいつも本当に敬服する思いです。これからもよろしくお願いします。


今回初めての再提出になって、クマラの?厳しさを感じられたかもしれませんが、愛の鞭です、笑。

よく不良たちが、道端でとぐろを巻いて、大人なんて、下らねえ!とかイキがりながら、「ほんとは、きんぱっつさん(金八先生)に理解してもらいたい」と拗ねてるように、そういうところも誰のなかにもあるのですが、でも、その金八先生に本当に激怒されて、「おれ、目が醒めたよ、おれ明日から生まれ変わるよ」と泣き崩れるところまで行かないと、本当の解決にはならないんですね。(たとえが、かなり古いですか?、汗)

そうでなく甘やかされると、最近の歌舞伎役者さんの行状のような結果を生む可能性があるわけです、笑。

やっぱり、鍵は真剣さなのでしょう。
ポーズではなくて。
本当に命がけで何かをやり遂げる人は、「わたしは命がけでやる!」とか周囲の人に言わない人です。
たぶん、そこの部分を、クマラは注意したのだと思います。

そして、そこの部分を真剣にコミットしないと、過去生を癒すという目的の今生が、十分に機能しないという配慮であったとも思います♪
ということで、必要以上の自己憐憫は、手放さなさなければならない部分だったのです。
これからも誘惑はやってくるかもしれませんが、そんなときこそ「自分に甘く」何度でも前を向き直して進んで行きましょう♪

そして、わたしたちが完ぺきでないからこそ、「恩寵」が贈られるのです。

素敵なレポートありがとうございました!
そして、お疲れさまでした、感謝です☆