≪サラスバティ(瀬織津姫)≫の感想です9

先日は金星の女神学校サラスバティを受けさせていただきありがとうございました。またもや遅いレポートです(汗)。

私の場合、何か掴んだ!という腑に落ちる感覚がないと、レポートを提出できないようです。それぞれのテーマに即した現実的な課題が、意識に上って消化できないことには、この感覚がやってこないので、書けないうちはずーっとテーマを追っていることになります。

今回もあまりにも煮詰まったので、投げそうになりつつ、息抜きに読んだのが「ガラスの仮面」(笑)の紅天女の練習部分だったのですが、久々に読み返してみると、あの女優修行がほとんど女神学校の修行とかぶっていて(笑)、感慨深かったです。しかも、紅天女のテーマは自然を司る女神の心を掴むことであるし、頭と体と心を駆使しての演技(女神として生きること)を求められているわけで、読まされたのかな?という感じでした(笑)。

話はさかのぼって、9月のはじめ、何となく思い立って、近場のご縁を感じている神様の祭られている神社にお参りしました。その神社は龍神様が祭られていて、「水が得られますように」と願いました。で、今まで何度も足を運んでいるのに気付かなかったんですが、すぐ近くに噴水がありました♪(泉のメタファー?)

さらに翌日、ある神社に行くつもりだったのですが、直前になって何度も目にした文字が「イナリ」だったので、大きなお稲荷さんの神社に行ってみることにしました。ご利益を求める人の念に満ち満ちていそうな、ちょっと儲け主義な感じのする神社で、今まで逆に行きたくないと思っていた場所です。

着いてみると、駐車場も繁忙期でもないのに有料だったり(実は無料のとこもあったのに、年中有料だと言われた)、参道が出店になっているのだけど、暑くて客足が少ないので、商売あがったりな殺伐とした感じが漂っていました。一人だけ声をかけてくれたおばさんは、お線香売りの人で、買うことに。で、社殿に着いてお線香に火をつけていると、掃除のおじさんが近づいてきて、戦死者を祭った観音様の場所を教えてくれ、「ぜひ参ってくださいよ」と、なぜか言われたので、高次のお遣いかしら?(笑)と思ってその通りにお参りしました。

観音様にお参りして、戦争もどれだけのものを奪い合ったのか、その多大な損失と、深い深い魂の傷を一体どのようにして埋めることができるのか、と気が遠くなる思いでした。反面、その神社へ落とされていった人々の欲望の数々を想像すると、嫌悪感を感じてしまいましたが、不意に「不安ゆえなのだ。奪われた苦しみ、奪われるかもしれないという恐怖が、欲の元なのだ。」という思いが湧いてきました。だからこそ、私たち一人ひとりが、他者から奪うことをやめて、互いの欲望を責め合うのもやめて、高次から受け取れることに気付いて、受け取って流して行くことが必要なのでしょう。

という感じで、ハトホルを深めようとしてとった行動が、どれもサラスバティの準備になっていました。

そんな感じで、順調に(?)迎えた学校前日、何の前触れもなく子供が伝染性の病気になってしまい、翌日以降外せない仕事も入っていたので、相当慌てました。いや、でも、サラスバティの学びなんだ、落ち着け、と思いつつも、外せない仕事をある程度こなすために、割と丈夫そうな(?)父に送り迎えを頼みました。

車中で思いのほか父と話もはずみ、ふと、母とのことについて聞いてみようかという気になりました。普段は父に対して、感情に立ち入った話はとてもしにくいのですが、その時は、その夜にサラスバティを受けるのだから、どんな反応されても大丈夫、という気になり、実際聞いてみるとひと言だけ返ってきましたが、その後は無言でした。そのひと言は投げやりな感じで、やっぱりな〜と思ったのですが、話に触れておくができただけでもよかったと思いました。

翌日、9時に学校が始まった時、私は早めにお風呂に入っていましたが、なぜか昨日の父のひと言を思い出しました。その時、ものすごく大きな痛みの感情が襲って来たのです。父の苦しみの感情が、エネルギー的にやってきたという感じでした。とても向き合えたものではない、大きな深い痛みでした。本当に、誰でも心の奥には、こんなにも手のつけ難い心の苦しみがあるのだな・・・と、そして、女神に見放された男性性の苦しみとはこんなにも孤独なのかと、衝撃でした。(この時から一ヶ月以上経ちますが、つい先日、母が、父からのメールに珍しく気遣いが感じられたと言っていました。)

それから、私自身も、伝染性の病気の子どもを年配の親に預けたことを(ちゃんと消毒等気をつけはしたんですが)、後ですごく後悔しました。ひとの命を削って仕事をしようとしていたことに気づいたからです。

サラスバティの二日目、思ったのは、「私は、高貴な玉に価しない」という思いでした。今少しは光の方を向いて前進しようとはしているけれども、その過程においても、他者を犠牲にし続けている、このような私に、龍に奉仕してもらう資格などとうていない、という気持ち。しかし、そのような否定的な思いこそ、瀬織津姫に流してもらえるのだと、すっかり預けてしまうことにしました。

そして、翌日、急に、「あ〜、完璧であろうとしなくてもいいのだ。」と思いました。高貴な玉になるための資格は、完璧であることではない。自分の不完全さ、弱さを見つめられること。そうして初めて、他者を、自分の人生を、コントロールしたい欲求を手放すことができる。そうすると、何だか、自分の味わってきた「惨めさ」というものが、洗われて行く気がしました。惨めさとは、自分で自分を貶めている面もあり、ある意味逃げていたんだな、とも感じました。自分の弱さに向き合いたくなくて、惨めさに溺れてしまうので。自分の弱さに真に向き合うと、謙虚にならざるをえません。そこからしか高貴さを目指すことはできないと思いました。惨めと高貴って、ちょうど反対語でもあります。

フミさんが江ノ島の龍宮祭について、去年の時の記事にも触れていらして、たまたまその周辺の記事「骨と血」も読み進めてみると、アバンダンティアの時に分からなかった答えを発見しました。アバンダンティアでの、動物と人間だけが血を通わせた生き物であるということはどういうことなのかという問い、そして、血の浄化・霊化=「欲望の純化」が、豊かさのカギであるというヒント。

『血は、もともと「怒り」と深い関係があるんです。血が、わたしたちと植物を違うものにしているのです。血は、動物の特徴で、赤い血は、鉄分を含み、これが、わたしたちを好戦的にさせているんですね。

血液は、体内をくまなく循環していて、・・(略)・・循環する、流れるということは、「手放し」に関係していたのです。「血」は、わたしたちに、どんどん変化してゆくことを促すのですね。それを拒むと、「血」は、固くなるのです。血液の流れを止めることが出来ないということは、宇宙の流れをわたしたちが止められないということとイコールだったのです。』

つまり、怒りを手放して(流して)いかなければ、欲望も純化できないということ。

血が通っている=好戦的。「血を流す」という表現にそもそも、欲(食欲)のために他者を犠牲にする(命を奪う)という意味合いがあります。そういう人間の本質を認めながらも、それを越えて霊化させていくことも可能であると知ること。そして、それを可能にするために、常に循環させ変化を拒まないこと。つまり、怒りを手放して(流して)行く必要がある・・・。

そういえば、好戦的であるとか、欲望であるとかいうのは、火星的なエネルギーだと思うのですよね。だから、男性性の欲求がからんで来るのです、やはり。で、思ったのですが、ものすごい悪人だった人が改心したら一転して奉仕型の善人になるという例え話がよくありますけど、なんで、もともとそう悪人というわけでもない、例えば私のような人間は、そのように劇的に生まれ変わることができないのか?と逆に理不尽にも思ってたんですね(変ですが)。でも、それも要するに、エネルギーの通り方の問題なのかな、と。火星的欲求に忠実であるということは、ある意味エネルギーの通りがいいから、現実化のパワーもあるわけですよね。だから、エネルギーの向かう方向を変えると劇的に変化できるのかな?一方、私のような人間は、抑圧が大きくてエネルギーが滞っているから、ややこしいのかなぁ(ため息)と思っていたら、月の女神学校の記事で、やはり納得ですね。

↓↓

思うに、うちの主人は、別に特に悪人ではないですが(苦笑)、ある意味、ストレートに好戦的で、欲望や、悪の感情にも素直なんですよね(善である時もてらいなくストレートです。笑)。というのも、アバンダンティアで強まった家族の結束は、その後もろくも崩れ去り、けっこう火花が散りまくっていたんですね。前々から、実は主人との確執(?)がアバンダンスの妨げ?と疑いの念を抱いていて、ハトホルで「平安」を求めたのに、火星パワー炸裂ですから、いちいち好戦的なのです。で、気付いたのですが、私が相手をコントロールしたいという欲求があるわけです!コントロール欲求は明らかに「欲」なんですね。しかも、夫婦間に常に損得勘定がある・・・。これでは奪い合いは終わらない、と思いました。

で、ふとフミさんの記事で、麺が無性に食べたくなって、というお話を読んで、私も食べたくなりまして、家族を誘って行きました。私のポケットマネーで。(ゴージャスではないですが。笑)で、楽しく過ごして帰宅して、落ち着いたところでサラスバティの龍についての記事を読み返していて、ハッとしました。「龍のサポートを得るにふさわしい存在であるのだという自信と誇りを持ってくださいね。 わたしたちが、毅然とした態度で臨むとき、龍はわたしたちに、とても優しい本当の素顔を見せてくれるのです。そして、龍のサポートは、強力です。嵐のようにですね(笑)」と。あと、リンクの漫画も読みました。で、何だか、まるで主人のことみたいだ・・・。そう、もし、サポートにまわってくれるなら、とても強力なはず。ちょっと、我ながらビックリな発見でした。

なぜ、そのように結びついたかというと、龍のエネルギーは、クンダリーニのエネルギーだという思いがありました(蛇にたとえられますし)。で、クンダリーニのエネルギーは欲望に関わっているから、火星と関連していそうだなぁ、と。このパワーが大きい(欲望が大きい)ということは、いい悪いではないのでしょう。が、パワーが大きすぎると制御が難しい。だから、力を愛により洗練させて行く必要がある。それは、本当の聖霊としての龍もそうでしょうけれども、人間の持つエネルギーの使い方においても、きっとそうなのだろう、と。

でも、このような気付きから私が大幅に譲ってみても(敢えてこの表現で)、状況は改善されませんでした。とはいえ、女神学校を受け始めた最初の頃から考え始めると、断然よくなってはいるのです。でも、ある種一時的に高次に守られていたのだとも言え(私が自分のことで精一杯だった期間でしたから)、それに甘えてもいたともいえるわけなのでした。だから、一段落したらまた嵐はやってくるのだろうな〜、と思っていたのですが、それがここ数ヶ月やはりという感じでやってきているわけなので、アバンダンスの課題でひっかかってくるのもある意味覚悟してはいたことなのです。

は〜。そうです。過去にあった色々なことを、まだ許せていないのです。許していないという前提で、奉仕を流そうとすると、犠牲の意味合いが出て来てしまうのです。尊重するということが困難、というか、義務的になって負担に感じてしまう。いったい、瀬織津姫の祓いのエネルギーをもってしても、許せないなんて・・・。

いや、瀬織津姫こそが、癒せるはずなのだ。私が、自分に許可していないだけ。では、これまでの犠牲ゆえに、私は現在どうだというの?現在の私・・・・高次に愛されている。高次から、たくさんのものを受け取っていて、感謝の念が絶えない。・・・・なのに、誰かを許せないなんて??

これからも、ずっとずっと愛され、受け取っていけると信頼するなら(すでに多くの恵みを頂いてきているのですが、いつしかそれがなくなってしまうのでは、いつか自分が慢心して高次に見放されるのでは、という恐れがありました。あるいは、私はまだ犠牲をやめることができないでいるから、いつか疲れ果て高次に対して怒りを感じて再び絶望するのでは、と。しかし、その恐れさえ、アバンダンティアとして豊かさの循環に入ることで、やっと流すことができたのです。)、そのような恨みつらみを抱え続けることに意味があるだろうか?と、考えた時に、重い鎖がブツッと切れたような気がしました。恨みつらみが自分の足を引っ張っていることに気付いたからです。愛がなければ、人間は痛みすら拠り所にしてしまう、孤独な存在。「愛されている」と識ることができたら、「孤独」についても「識っている」と言えるようになるのでしょう。

が、またしても状況に変化はなく、変わらないということにだんだん絶望し始めました。そこで、12次元の時のフミさんのアドバイスから、受け止め方を変化させるという方に焦点を置くようにしました。これまで、自分の「変わりたい」という思い(努力)の結果を、周りの変化に「求めて」いたので、それも結局、自分の評価を外に求めていることに違いはないのでした。だから、努力するほど、絶望感を深めていたのですが、もう努力するのはやめよう、そして、無駄に傷つくのもやめようと思いました。何を言われても、私の価値が減るわけではないはずだから。で、よく観察してみると、言われている内容と、私が努力しているか、怠けているかはあまり関連がなかったんです。そうではなくて、私がどんな気持ちでやっているか、の方に反応していたんですね。

と、そこまで気づいたところで、月の女神学校です。この怒りに対してワークしてみると、出て来たのは、またもや意外な感情。「愛されているという自信がない。」でした。(顕在意識では、愛してくれなくていいから、邪魔しないでほしい、そっとしておいてほしい、と思っていました。)やはり、「自信と誇りを持ってくださいね。」と、いうことなのでした。で、怒りをある程度浄化してみると、「自信持ってみよ〜♪」と思えるようになり、実際自信を持てるようなエピソードも、いいタイミングであったり、と急速に好転し始めています。コントロール、ではなく、ライダー♪という感覚が何となく分かりそう?

考えてみると、見事なほど、あらゆる女性性の痛みを教えてくれたものです(どれもプチではあるのですが)。これらがすべて、痛みの共感の種になるのだなぁ〜、と、そのために、私が望んで得た経験なのだと・・・、今になってやっと納得という感じです。

↑↑

グリッドの説明にあったセレナイトは虹がでる(注:セレナイトではなくてミルキークォーツのスフィアのことだと思います)とのことですが、ちょうど、とあるブログで、「クラックを傷と見るか、虹と見るかは自由」という言葉を見つけました。虹は、もとは傷であったとも言えるわけで、犠牲がどうやったら栄光ある奉仕になれるのか?という7次元の問いをやっと少しは理解できたように思います。

あと、チャリスの井戸について気になり、少し調べると、鉄分が多いため水の色が赤みを帯びていて、キリストの血を受けた聖杯の眠る場所だという伝説もあるとのことでした。やはり、キリストは人類の血の浄化・霊化の礎として、自ら受肉しただけでなく、その血を流すことで、奉仕した存在だと言えるのでしょう。そして、チャリスの井戸を検索すると、ツァフキエルのボトルの追加説明に行き当たるのですが(チャリスの井戸で受け取った内容だからですね)、赤血球の変容について語られていました。(私がツァフキエルのボトルを開けたのが、サラスバティの初日でした。が、その後のスランプと同時に、使用を中断しています。)やはり、火星のテーマ。強靭なクモの糸のように・・・しなやかな橋を織り成す、ともあります。(細くて切れそうだった糸が!)

そして、学校当日に「復活」「再生」という言葉が偶然家族の口から出ましたが、私たちは自分の魂を真実に顕現しようとする中で、ただ次々と新しいものを次々と生み出すだけではなく、遂げられなかった何か、素晴らしかったと回顧したくなる何か、それらに新しい可能性を付与して再生・復活させる使命を持っているのではないかと思いました。常に再生・復活の要素を取り込むことによって、過去が未来となり、未来が過去となり、巡り(流れ)が円環的に続いていく。だからこそ、永遠だと言えるのではないか。女神ヴィーナスの在り方そのものでもありますね。

で、まだまだ現実的な課題の消化は続きまして、不動であることは二元性を受け入れること、とありましたが、頭では理解できてもハートでは理解できていませんでした。今回の子どもの病気はその試練となりました。陰の部分も受け入れるべきという意味でではなく、何だろう、自分がスピリチュアルな道を進み続けようとする時、いつも葛藤を感じていたのです。家族に愛を注ごうとすると、自分が自分であることを犠牲にしているように思え、自分が自分であろうとすると、家族への愛を犠牲にしているように感じていました。さらに、休んでいた2週間は、そのどちらでもあれない、自分も家族も犠牲にしてしまったような、苦い思いが残りました。

でも、大切なのは、時に自分が自分であれなくても、あるいは愛であれなくても、その時その時を精一杯愛して生きることかな、と、それを続けていくうちに、そのどちらもが自分が自分であり愛であるもの(かつリラックスしていられる)へと近づいて行けるのでは、と思います。つまり、どんな選択をしようとも、後悔とか、もっと他にいい方法があったはずという思いに捉われず、その時その時に集中すること、あるいは、思うようにいかなくてもそれを許すことで、逆に得られるものがある、自分が自分であること、愛であることを味わい学ぶことができるはずなんだろうと思います。

実際、休んでいた2週間を、案外楽しく充実させて過ごすこともできたのでしょうが、それができていたとしたら、私はまたもや陰を乗り越えたような気になって傲慢になったのでは?とも思います。サラスバティで学んだにも関わらず、与えられた試練に苦しみを感じたことを否定できない以上(人によって何を苦しみと思うかは様々でしょうが)、「人生陰も大事なのよ」と、軽々しくは言えないですから。やはり配慮しなければ、という気持ちになるわけです。思えば、学びが遅々としているようであって、実は必要な課題を凝縮して与えられているのであって、逆に短期間で学ばせてもらっているのでは(とことん全面降伏できるように?)と、今は感じています。

そういう意味で、レポートが遅れて焦るというのは、学びそこなったのではないか、という焦りだったのですが(仕事もかなり追われていたのもありますが)、以前自営をやっていた中で、仕事や生活に追われて、休みの時もかえって焦ってしまって、気が休まらないという状態だったのを思い出し、仕事変えした今も、実は相変わらずそういう精神状態だったのです。だから、好きなことを仕事にできるとしても、自営だと、いつも時間的にも金銭的にも追われている感じになるからイヤだという気持ちがあり、それもひとつの課題だったのでしょう。

ですが、真の豊かさとは、いつかその地位を完成させて不動であるよう維持していくことではなく、ただ流れさせ循環を止めないことでこそ不動であることが可能となるもの。時間もその流れにあるのだから、与えられた時間の中でその都度必要なことが起こっているのだ、と信頼すれば、焦る必要はない。そして、目標・計画を立てて、それに向けて行動するのではなく、与えられた流れに乗ってみること、それが色んな役割に追われてパワーを失いがちな自分の限界を打ち破って行くコツなのかな、と思いました。「流す」と決めていればこそ(豊かさも、怒りも)、龍のパワーを大胆に求めることを、自分に許すことも可能となるのでしょうから。

とはいえ、このような多くの学びも、まだ頭で理解しただけで、実践としては、月の女神学校のワークを深めていくとともに、より浸透していくのかなと思います。でも、頭で理解するということも、私にとっては真実を揺るぎないものにしていくために、非常に大切な一過程だと、改めて感じました。

今回も多くの愛と学びを本当にありがとうございました。見放さずに見守ってくださった高次の方々、フミさんに感謝です♪


感想ありがとうございます♪
これで、クマラの言っていた前進への条件がクリアされましたね。

さてさて、そうです、修行ですよね〜。
人生は、魂の修行です。
けど、この修行(苦しみ)を取引に使うと本末転倒になりますね、苦笑。
犠牲者しか生まれません。

そうではなくて、生まれてただただ安泰に守られて幸せになることを当然と思わないということですね。
それを当然の権利と思って、そうではない自分の人生を嘆く人が多いのだと思うのですけど、嘆いてもいいわけなんですね。
嘆きっぱなしじゃなければ、苦笑。
右往左往して、わたしたちは、成長するんだ!それが人生だ!という意味での修行ですね。

そして、その修行の究極の暁には、わたしたちは、究極の愛の人になってしまうという。
すてきなシナリオですね♪、笑。

まあ、先は長いですから、ゆっくり歩みましょう♪
のんびりと。
サポートは、万全ですから♪

それが、信頼ですよね。

完全にコメントではなく、独り言になってしまいました、苦笑。
ごめんなさい。
つまり、拝読してとても感銘を受けたということです☆