金星の女神学校≪観音 クァン・イン≫の感想です3

先日は、「金星の女神学校」≪観音 クァン・イン≫に参加させていただきまして、ありがとうございます。


「月の女神学校vol.4」での「共同創造」の学びや「月の女神学校vol.6」で慈悲のエネルギーに触れた後も、どうしても光を目指すことによって天と取り引きしようとすることをやめられませんでした。
史衣さんのブログ記事『でも、この男性性止まりません、止まったら、自分のなかの敗北感や、無価値感、愛されていない飢餓感などが、自分のなかで浮き彫りになってしまうからです。』の通りに、それは傷ついた男性性の暴走であり、また天への不信ゆえの恐怖でもありました。


「あるがままの自分を愛する」という場合にも、「今はダメな部分ばかりだけど、これからそれを変えていく努力をするから」という条件付きの愛しか送れませんでした。
「足りないところだらけのあるがままの自分」を無条件に愛するなんて、不可能というかむしろ「そんなことをしてはいけない」という意識がありました。向上心の欠如とか堕落に繋がるような気がしてならなくて。
でも、慈悲のエネルギーを受け取るには、「今のままで、何もしないこと」が必要だと語られました。
女神やマスター達の言葉は真実で、建前と本音があるわけじゃないですから「え、じゃあ、ダメ人間のままでいいの?」とハートの戒めを弛めそうになっては、「いいわけない!周囲の人達に迷惑をかけていて、良いわけがない」と慌てて首を振ることの繰り返し。

でも、28日の夜にもたらされた女神のエネルギーは、正しい(光)からあるいは正しくあろうとしているからではなく、今の私に惜しみなく降り注ぎました。女神の愛は、苦闘の末に得られる条件付きの愛ではなく、まさに無条件の愛であり、今のままで、あるがままであるほど受け取ることのできる愛でした。


何故観音は、無条件に愛してくれるのか?それがほんの少しでも分かれば、私はあるがままの自分を愛せるはずと、今回と「月の女神学校vol.6」のエントリーメールを読み返しました。当時は理解不能でただただ観音意識の凄さだけを遠い存在として感じていたのが、慈悲のエネルギーに2度触れた今になって、やっとエントリーメールの内容が心に少しずつ染みこんできたような気がしました。

私が私を無条件に愛するためには、私が今の私である理由を理解し、その痛みを受けとめなければなりません。
これからもっと学びを深めなければなりませんが、全ては私の男性性が引き受けた傷から始まりました(6次元ナディの学び)。
私の女性性は男性性の痛みを癒すことが出来ず、男性性の苦闘が始まります。
「愛されたい(癒されたい)」という悲痛な思いは、「愛されるに値するものになろう」という優劣の競争へ向かい、その苦闘の結果の愛(条件付きの愛)に出会うことで余計に、あるがままの自分が「愛されるに値しないものである」という思いを強めていく結果になってしまいます。終わりがないのです。傷は深まるばかりです。


私はずっと、何故こんな人間になっちゃったんだろう?と思っていました。
誇りに思えるところが一つもない今の自分が本当に嫌いでした。
私の現実は私が作っている。それは分かりますが、どこでどう間違って、こんな人生になっちゃったの?と考えずにはいられませんでした。
今回その理由、「私が今の私である理由」が分かりました。5次元6次元統合ナディの時に引用させていただいた史衣さんの記事を再び引用させていただきます。


『最近、クマラは、わたしに「愛しい人」って呼びかけてくれるようになったのです、笑。おそらく、この場で、彼を認めたことも大きいと思います。そう呼びかけられると、本当に実感して安心する自分が今はいます。

でも、「愛しい人」っていう呼びかけのことを書くようにと言われたとき、それはちょっと...と思いました、笑。

それこそ、あなたの愛にかんする神話でしょう。
愛されているということにかんしての、笑。
あなたが思ったとおりの現実をつくりだしてゆくこの宇宙において、あなたが、
愛されているということをかくそうとするならば、あなたにふれあう多くの人も
かくさなければならないという現実をつくりだすでしょう。
あなたは、どちらをえらぶのですか?

そして、愛されているということこそ真実なはずです。』


自分を「愛されるに値しない人間」として扱って、苦闘を続けてきたゆえに、私が「愛されるに値しない人間」だと感じる人間に、私はなったのです。そういう現実を作りだしてしまった。このことに気づいて、私は初めて自分を無条件に愛し始めることができました。

戦いをやめることができたのです。痛みを経験し、理由を理解する。そして、観音がおっしゃる『ただ、ありのままを受け入れて、受け止めるのです。それで強者であっても弱者であってもいいのだと。』を受け入れることができました。女神学校での「慈悲」の経験が顕在意識にまで降りてき始めた瞬間でした。


そして、去年4月の「太陽のナディ」から知らずに歩き始めていた学びの道が1本の道として、真っ直ぐに今立っている場所に繋がっていたのが分かりました。
「ナディ」「ラブ&アバンダンス」「ヴィーナスファンデーションリリース」「月&金星の女神学校」、順番に1歩ずつ導いていただいた道。手のひらに指が食い込むほどにきつく握りしめられた拳の指を1本1本解きほぐしていくような、辛抱強く愛に満ちた導きでした。ありがとうございます。


しかし・・・すみません。この後、苦闘をやめてみて知った苦闘の無意味さに、「これまでの人生なんだったんだ・・・」みたいな気持ちが湧いてきました。特に、苦闘などに陥らず、人生に美しさや喜びを見出して生きている方に触れた後、どうしても自分の苦闘の愚かさへの嫌悪みたいなものが止まらなくて。。。
正しさへの執着の最後の抵抗、みたいなものだったかもしれません。


「ライトワーカー」という言葉。私はずっとこの言葉に、選民意識のような偽善を感じて、抵抗を持っていました。
でもそれは、光は正しく、闇は悪いという私の意識の投影なのでした(それで、私は光ではないので、ムカついていたのです:笑)。
波動の高さを善、波動の低さを悪と考えてしまう。
逆に、苦しみを引き受けることに「正しさ」を主張しようというエゴが入ると、それも選民意識の居心地の悪さに繋がってしまう。
光を善とすれば闇は苦しみ傷つき、闇(を引き受ける)を善とすれば、光でいることが苦しくなる。優劣、正しさを求める意識を超えなければ、何も見えてこないな〜などと考えていて、インスピレーションが浮かびました。


「痛み」「傷」「苦しみ」を前にして、全ての存在がこれを癒すために引き受ける役割を選んだ。光と共振し続ける純粋さを確固として持つ魂。「傷」を癒すためにはまずその「傷」を知らなければならない故に、「傷」の痛み・苦しみを体験する魂。
全て役割。全て尊い。それぞれの引き受けた役割によって、この地上で様々な旅が展開される。他者の旅に目を奪われそうになる時もある。


全ての旅が美しく、また困難を伴うが、本人にしか分からない困難ゆえに、他者の旅の美しさのみに目を奪われる。自らの旅の困難は、当然認識しているからね。苦しくて、自分の正当性を追求したり、他者を貶めてみたりする。この旅(役割)を選んだ自分の光を信じ、自分の旅に集中してみなさい。

自分が抱えた痛みや傷、それは他者と比べて恥ずかしがることでも失敗の元でもない。傷がもたらした経験を味わい、受け入れて、そして癒しなさい。そして癒された傷が、あなたの中でどんなものに変わるのか、それを体験しなさい。それがあなたの旅です。


というわけで、もっと自分の旅に集中することにします。私の苦しみが観音意識の種だったといえるようになるには、もっと自分の聖域に集中しないといけませんね。


それで今、改めて感じているのは、天への不信とインナーチャイルドの傷です。これらを男性性の苦闘で解決しようとしていた時が終わって、女性性で受けとめる時が来ました。必ず女性性を通るようにという天の摂理の道に、やっと辿り着いたわけです。


でも怖いです。自分の真実のみに立脚して生きると決めて、そして怖がっています。この怖れをジャッジしてどうこうしようとせず、このまま受けとめて感じていようと思います。真実(聖域)は守らなければならないから。


史衣さんの6/3の聖域についての記事を読んで、高次の真実「全ては愛」と影を沢山含む自分の真実との間での混乱や光溢れる他者との比較による混乱、他者の影への困惑があったけれど、だからこそ私の真実は私自身が守り、その聖域でユグドラシルを育てていかなければならないのだと、何となく分かってきました。

6次元ナディのマイトレーヤ(クツミ)のメッセージに励まされますね。怖さは消えないけど・・・(私の怖さを癒すのは、私の女性性の役割なのですね)。


今回も、そしてこれまでも本当にありがとうございました。女神、マスター、史衣さん、ご参加の方々、関わってくださった全ての存在に感謝します。ありがとうございました!