金星の女神学校≪パラス・アテナ≫の感想です6

先日は金星の女神学校パラス・アテナに参加させて頂き、ありがとうございました。

数日前に風邪を引きかけていたのがアチューメント後に見事にぶり返し、今まで風邪で寝込んでも一日二日のことでしたが、今回はまるまる二晩の高熱に続き、休めない仕事の状況でちょっと身体を動かす度にまたどんどん上がる熱、そしてどんどん落ちていく食欲・体力、という状態がGWの終わりまで続き、それは人生最大の大風邪でした(苦笑)。


こちらはアチューメントの後、まだ日の浅いうちに書いたものです↓

アチューメントの直後には、まだ楽観的で、こんなひどい風邪をひくなんてよほどのものが溜まっているのかしらと、「何かヒーリングワークでも受ける必要があるのでは」と高次に問うと、「必要ないとは言わないが、今の君にとっての必要性とは、日常生活の遅れを取り戻したいというのが一番じゃないのかね?」と言われまして、図星にて撃沈でした(苦笑)。
さらに、「では、地上の天国のために何をすべきですか?」と問いますと、「君は顕在意識では喜んで受け入れているつもりだろうが、潜在意識ではまだ十分ではないのだ。実は君の使命(使命という言葉はちょっと語弊がある気がしますが、地上の天国を作り出すためのギフトのことだと思います)は君にとってまだ荷が重いのだよ。だから、少しの間混沌としている必要もあるのだ。」と。ちょっと、我ながら絶句しておりましたが・・・


私にとってはパラス・アテナはアルテミスから切れ目なく続いているテーマであって、前々からの色々なヒントがパラス・アテナに向かってはいたのですが、今回アチューメントの後に降ってきた「恐れ」は、それはもう今までで最大級で、こんな恐ろしいテーマに自分で気付くことができたなんて、私も成長したかな、と皮肉に笑いたくもなるような、まさに荷が重いというか、逃げてもいいですか?という混乱したままの状態で、書かせて頂きますが・・・

私自身が地上の天国を顕現しようとすることで、家族(子供)の「命」を犠牲にしてしまうのではないか?

という恐れです。

実際、この数日、子供と離れている間に、異常なくらい子供の安否を心配してしまっていました。そしてテレビを見ると福知山線の事故で子供さんを失った親御さんの哀しみに暮れる姿が辛くてたまらず、でも体調も万全でない折に子供がわがままがエスカレートして行くのに耐えられず尋常でなく怒ってしまったり、このアンビバレントな状態こそがまさに私の真実を語っていたのです。

そして今までもずっと同じアンビバレントな状態にいたことに気づいて、もう、本当に、呆然としたのです。

スピリチュアルに生きることが、何よりも家族を守れ愛せる道だという確信があるにも関わらず、まったく逆に、私がもし自分の使命に気付いてしまったら、神様はそれと引換えに、または学びのために、私の大切な家族の命を奪って行くのではないか(つまり、私が自らの学びのために、家族の犠牲を経験として必要としているということでもある?)、あるいは、私自身が私の使命の追求のためにそれ以外のものを邪魔に感じ、直接的にではなくても結果的に殺してしまうのでは、という恐れが、今までずっと根深いところにあったのです。


これに気付いた途端、愛する我が子を失ってしまったすべての母親たちの哀しみ、自分は無理でもせめて子供には自己実現してほしいと、自身は犠牲の人生を送るしかなかった母親たちの哀しみ、子供のせいで自己実現できないと子供を憎む(そして虐待等に及んでしまう)母親たちの苦しみ、そのすべてがのしかかってきたような気がしました。

私にとって、これ以上の地の底はあるのかというほど深いテーマですが(まさに母と子の暗黒面です)、これは一体乗り越えられるんでしょうか?このテーマに真正面から向き合うことはほとんど苦悶に近しいのです。


途方に暮れつつも、掴んだこと。聖母マリアの慈愛はどこから来るのか。世界の始まりから、愛の源から滔々と流れてくるのか。否、最愛の息子イエスの死を乗り越えて(人間存在への下降を乗り越えたということでもある)はじめて、すべての者への尽きることのない愛として、それは神の深い慈愛となる。

ならば、私のこの母性の暗黒面は、その深い慈愛へと純化されるための布石としてあったのではないか?この暗黒は何のために作られたのか考えてみよ。私自身の真実への希求から。それは間違いなのか?

私が深く深く真実を希求することで、何かを引き換えに奪われてしまう、学びのために犠牲を必要としてしまう、邪魔に思ってしまうのではないか、という幻想。私は地の底へ下って行っても真実を拾い上げてくると誓ったけれども、この幻想のためにその手前で立ちすくんだままでいる。この恐れは幻のはずなのに。


深い慈愛がすべてを許すなら、私は何を許せばいいのか?子を奪った敵を、戦いを?子を奪って行く運命の神を、病魔を?子を憎み虐待し、殺めてしまう母親を?


否、私が許さなければいけないのは、たった一人、私自身である。そして、「犠牲」を必要とするのは、常に「依存」の関係なのである。私が誰かに依存するなら、私はその人を犠牲にしてしまうだろう。私が子供に依存するなら、やはり私のために子供は犠牲者となるだろう。

エスは死を供犠として完成した。だから、私たちはもう犠牲のための死を恐れる必要はない。地上の天国に犠牲は必要ない。地上の天国では、死からではなく生から学びさえすれば十分なのだ。何故なら、地上の天国では生の中に魂の永遠性がすでにあるのだから・・・


ナウシカもアルテミスだとありましたが、私が映画を見て衝撃だったのは、冒頭でナウシカが父を殺された怒りのあまり、その場にいた敵をメッタ斬りにして皆殺しにしてしまうシーンでした。アニメだから凄惨さが薄まっているけれども、まさに血の海でした。本編がナウシカの自然に対する深い愛によって感動的であればあるほど、あの冒頭のシーンがよりはっきりと暗い影として思い出されていました。

最愛の人を殺された義憤。そこから始まって行く慈愛。私から最愛の人を奪って行く憎い敵は、何と、私自身なのです。私自身の「依存」であり、「弱さ」であり。殺される者でありながら、殺す者でもある私。その両方の恐れを一人演じてきた私。だからこそ、私は、私自身を破壊したいという願望を持ち続けてきました。


パラス・アテナにちなんで選んだDVDは「ロード・オブ・ザ・リング王の帰還〜」です。たまたまついでで寄ったので、選ぶ時間もなかったし、前作を見ていないのでストーリーはよく分かりませんでしたが、かなりいい選択でした(笑)。

国が悪魔たちとの戦争へと向かう中、とても純粋無垢な美しい少女が出て来て王に心を寄せるのですが、王は目の前の戦闘とは違うミッションに進まなければならず、最前線まで見送りに来た少女を冷たくあしらって去ってしまうのです。その時の少女は嫌味なくらい純粋無垢で、私的にはドン引きしてしまったのですが、その少女、フラれた後に甲冑を着て戦闘に参加してしまうのですね(!)。そして、マンモスのような怪物たちと格闘した挙句、人間の男には殺すことができないという、敵の頭である魔王を前に、「私は男ではないわ!」と叫びながら、その魔王を見事に退治してしまうんです。

少女は純粋ではあれ、いつまでも純粋なだけでいることはできず、失恋(挫折)しなければならなかった。そして、戦いの旅に出て敵を破るのですが、それがまさに武装した女としての彼女にしかなしえないミッションでもあるのです。その少女とは思えない破壊力。それは、彼女の信念の強さそのもの。アチューメントを受けた時、その魔王を破壊する場面が一番に蘇ってきて、その悪魔的な姿は自分の弱さであり、暗黒面であり、つまりパラス・アテナの「パラス」の部分ではないかと思いました。

そしてこの映画、ただひとつのミッションを一人の人物が担って周りがそれを応援するという構造ではなくて、それぞれの人がそれぞれ違うミッションを担っていて(それが最終的にひとつのミッションへと繋がるのですが)、みな自分のミッションだけに一生懸命で(集中)、みな戦っているのは自分の弱さとなのです。そして他人の重荷を肩代わりすることはできない。

そして、みなが魂の戦いの旅から帰還して、はじめて真の王国が誕生する。


フミさんには以前少し話したことがありますが、一神教モーセの教えによって始められる時に、旅に出ることから始まっているのは、とても腑に落ちることだと思うのです。何故なら、多神教はすべてのものに神が宿る、土に、自然のすべてに神が宿っているので、多神教の世界では、人間は自分が生まれた土地固有の神と、母と子のような契約に結ばれて生きていくことになります。だから、自分の内なる神を見出すためには、その母なる大地を離れて「自我」を持ち、旅に出なければいけない(生まれてからずっと母なる大地に抱かれたままでは、人間の自我は薄いままなのです)。そして、旅の途中でその自我と何度も対峙しなければならない。まさに一神教の教えはこのことを可能にするのです。不毛な土地に生まれた一神教は、自然も恵みとしてあるものではなく、そのような過酷な自然(たとえば砂漠)の中においては、自分の社会的な地位など何の役にも立たず、サバイバルな智恵や、誰にも依存しない、そして諦めない精神的強さが必要になってきます。そして旅から帰還して母なる大地に再び受け入れられることが「統合」を意味することになるのですね。


どうすればこの依存を終わらせることができるのか?依存を愛に変えられるのか?もう変えることはできたのか?

と、そこで、クマラは私に次々に課題を出します(苦笑)。

私は依存を終わらせたいと思いながら、まだ病み上がりだったので、ちょっとダンナに頼ってしまったのですが、運悪く非情にあしらわれました。普段なら気にしないのですが、今回の病み方が自分的にひどかったので、ちょっと私の怒りも尋常ではなく・・・言霊を信じている私が、まさに念を込めて「○ね!」と、本人を前にではないですが、確かに口にしてしまったんです。そして最近祈りに念がこもった感じというのが少し分かるのですが、「真実に生きなさい」というクマラに対して、「私のこの怒りも真実だ!」と挑戦状を叩きつけてしまったのです。穏やかではありません。

そして驚くべきことが起こりました。

翌日、私は会社の車で外回りに出なければいけなかったのですが、会社の駐車場の出入り口を塞ぐようにカラスの死骸があったのです(驚愕)。他の者がすぐ市役所に引き取りを頼みましたが、女性ばかりでしたから、近寄りすらしませんでした(直視すらできない、と)。でも、私はすぐにでも出発しなければなりませんでした。

その死んだカラスは、私がダンナに吐いた呪詛(?)の身代わりとしか思えませんでした。ならば、私は私の責任でこれを動かし、出発しなければならないのでした。猫より大きいんですよ、カラスって。でも、クマラからの修行なら(いや、自分の因果応報なだけでしょうが)と、一人で、棒でダンボールに乗せて避けました。そしてその後は病み上がりの身体で、オンボロ車で嵐の高速道路です!何だ、このハードさは(苦笑)。

さらにそれでは済まず、仕事は普段飛び飛びのパートなのですが、急に一ヶ月フルタイムの仕事が入ったのです。私がどれほど私の聖域作りに精を出したかったことか。というこの時期に?です。

またもや私は「私の聖域が侵されている!」と怒り狂いました。私の使命を邪魔する者は許さない!と。何だかほぼ悪魔ですよね、私(苦笑)。何様?というか。

アルテミスとパラスアテナを受けて、自分の聖域を確立できているなら、それはもうなんびとにも侵すことはできないはずなのです。それは本物の受容性に満ちた聖域だから。でも私の聖域はまだまだ未熟なのです。

そしてその怒りの炎は本当の正義ではないのだと、私の恐れや奢りから来るのだと、悲嘆に暮れていると、地上の天国を顕現するためのギフトを与えられるということ、それは約束なのだ、と思い出します。すると、その炎が情熱の炎に変わって行くのですね。

青い、静かな情熱の炎、侵されることのない聖域。地上の天国のためのギフト。

「私はアルケミストになりたい」と。無意識に思ったんではないだろうか?

実はこの一ヶ月間の仕事というのは、教師的な仕事なのですね。今までもやっていることなのですが、人にモノを教えるというのが、基本的に苦手なのです。でもアルケミストであれば?ほんの少し心を過ぎったのは確かでした。

でも、実際は、いまだ全然嬉しくなく、負担な気持ちでいっぱいです。カラスだけで勘弁してください(涙)みたいな。

でも、日曜日に子供がジャングルジムの筒状の部分に登って、途中からはホントに鉄管の中に手すりがあるだけで真っ暗なので、子供がものすごく恐がって登らないんですよ。まさに産道のような穴です。でも、登りきった時の歓喜を親である私は分かっていますから、励ますわけです。で、病み上がりなので、自分も横から同じ高さに登ってあげることすらできない、だから、ただスパルタで行くしかないんです。でも、歓喜に向かっているので、安心してスパルタ(笑)。そして、やはり、成功した後は予想通りの子供の歓喜の声。

普段はスパルタをするのが苦手なのです。何故なら、けっこうスパルタ的要素を回避して生きてきたというか、だからスパルタを乗り越えてきたことがないのに、自分が人にスパルタするなんて失礼じゃないかって思ってしまって。でも、自分は他の人のミッションに寄り添えるわけではないんです。その穴は大人には入れない穴だったし(笑)。だから、より添えなくても、その先の歓喜が見えているのなら、真摯にスパルタできるのではないか、今回その辺の潔さも学ばせてもらいました。そして、カラスの死骸に意外にも奮起してしまった自分も、その先の歓喜に気付きつつある(地上の天国を信頼しつつある)からこそ、喜んで乗り越えようと思えたのかもしれません。

↑ここまでが、アチューメント数日後に書き上げていたものです。


↓ここからは、GWが明けてから書き始めたものです(つまりヴィーナス・ファンデーション・リリース後でもあります)。

不本意にも身体が完全にダウンして半月以上、やっと復活したと思ったら三次元な仕事がフルタイムで一ヶ月間連続です。明らかになってきた私の使命とは裏腹な道行に、三次元的な重さ、時間の制約、体力の消耗などもろもろに不安を抱えつつGWは明けたのですが・・。

待っていたのは肉体労働としての重さ・・・もあるのですが、それ以上に、自分に下され続ける社会的なジャッジメント・・・しかし、このジャッジ自体、小さな集団の中での評価であるからしてもともと偏っているのですが(金にモノを言わせる、脅して言うことを聞かせるやり方)、やっぱり私ダメ人間?的な評価に飲まれそうになりつつある自分を感じ、完全に三次元的な世界に浸かっていたところでしたが。

相手にしているのが中小企業の雇い主と雇われ側の最低賃金の工員ということで、いつも社会のランクというものを見せ付けられるのですね。そして、自分自身も決して収入もランク高いとは言えないすきま産業的な業種なのです。

しかし、工員さんというのは、生活のお金のためだけに機械的な仕事に長時間縛られている人たちで、私は彼らを見るたびに、あんな過酷な生活には自分は耐えられないという変な感傷で何故かへこみ、そういう人たちの泣き言に騙されないよううまく調教して働かせようと企業利益のために努力している雇い主さんを見ては、私にはこんな戦いのようなやり方で人を動かす権力は持てないとまた変に落ち込み、私は甘いんだろうか?現実を分かっていないんだろうか?と今まで散々やってきた堂々巡りをまた繰り返してしまうわけですが、そういう時にスピリチュアルな情報に触れても、なかなか波動を上げ直すことが難しいのですが、何と今回私を救ってくれたのは、フミさんのブログはもちろんなのですが、第二に、自分の書いた過去のアチューメントの感想及び、書きかけのパラスアテナの感想だったのでした。

そしてリリースで浮かび上がってきた、私の真実の欲求。今の波動の重い状況とは裏腹に、私が地上の天国を顕現している姿を想像するとものすごい喜びが湧き上がってきたのでした。私はこれが欲しい!と、今の状況がイヤだとか、この理想の状況を実現する自信がないとかのネガティブな感情をまったく伴わずにそう思えたのは、ただの妄想ではあれ、すごく幸福なことでした。


そして怒涛のようにあふれてくるメッセージ。

また人のジャッジで自分をジャッジし続けるのか?その人の世界はあなたの世界か?その人の現実はあなたの現実か?あなたはこれからの人生、工員という仕事の忍耐から何かを学ぶべきなのか?工員を雇って調教することにやりがいを得るべきなのか?あなたはこれからの人生何をやらされるのか、ではなく、何をすることを選ぶのか、ではなかったか?あれはやりたくない、と恐れるのではなく、これをしたいという喜びに生きるのではなかったか?それは、短期間の望ましくない状態の中で簡単に揺らいでしまう程度のものなのか?この一時的な仕事のために自分の真実が逸らされるようなことがあるのか?

あなたが自分自身に集中するなら、他人のジャッジに影響を受けるだろうか?あなたは彼らに協調(あるいは同情)する必要があるのだろうか?今すぐ、あなた自身と彼らとを明確に隔てなさい。それは冷酷ということだろうか?彼らには彼らの選択がある、それを讃えなさい。そして、自分も、自らの選択を讃えなさい。自分に集中するために。今回、集中を完全に逸らされたあなたは、それがどういうことかもう理解しているだろう。あなたはもう他人に傷つけられることはない。もし、あなたが傷ついているなら、それは自分が自分をジャッジしているからだ。そういう意味では、あなたはこれからも傷つくことがあるかもしれないが。

権力とは何か?恐れと力が結びついたものである。誰でも恐れを持っているから、権力を憎みながら権力に振り回される。振り回されないためには、権力を自分の側に奪い取るしかない。心に恐れを持つ限り、この攻防から逃れることはできない。あなたは逃れているつもりだったろうか?権力を憎んでいるということは、権力を信じているということだ。そう、あなたはまだ権力というものの価値を信じている。恐れ、憎み、信じながら、ここから自由になるために、同情し、許そうともしている、それもまたひとつの依存(←確かに、悔しいくらいに依存している自分に気付きました)。このパターンはもう経験したことがあるだろう。この、権力への依存をやめるための方法も、これから学んで行くだろう。

集中して、自分の真実へと戻りなさい。どんな時でもそれが可能であることを、あなたは学ぼうとしているのだ。最近あなたは、スピリチュアルな知識や技術について、それらを学ぶ時間やゆとりのある人が羨ましかっただろう。特に一時的に忙しくなっている今は。あなたにはあなたにしかなしえない使命がある、それをもう分かっていても、あなたはまだ集中できていなかった。低いランクからのジャッジから抜け出そうとしている今こそ、高い(とあなたが思いこんでいる)ランクからのジャッジからも抜け出しなさい。本当の焦点はそちらの方にあるのだが、その学びのために今の状態は最適なのだ。

集中とは、あなたでないものになろうとすることをやめることだ、完全に。あなたがこの点において、どれだけ不完全か理解できただろう、と同時に、以前よりは完全である状態へと近づけただろう。冷静さとは、ただいつも完全に自分自身であることによって感情に振り回されないことであり、それは冷酷と同じではない。であるゆえに、完全に自分自身であることは、「罪」ではありえないのだ。あなたはずっとそれを罪だと思ってきた。だから、自分自身でありたいという欲求を、犠牲として差し出して来た。喜びを罪とした。愛を罪とした。愛に喜びを見出しなさい。それは罪である必要も犠牲である必要もないこと。犠牲となってきたなら、その犠牲から癒されなさい。私が癒しを与えよう、無償の愛として。無償の愛を信じなさい。委ねなさい。自分自身であるということは、大いなる決意でもあり、まったき委ねの心でもある。犠牲の中での覚悟や諦めとは違うことを認識しなさい。恐れから身を解きなさい。その先に愛があるのだから。


このようなことを受け取って、最後に愛されていることに気付かされ、最終的に「委ねる」ことで「自我」を越えて行くことができるのだという境地に至りながらも、まだどこかで信頼しきれない自分がいて(どうやったら仕事を辞めれるか、つい堂々巡りで考えてしまう自分がいます)恥じ入るばかりですが、でも確実に「信頼」の方へ向かっているという実感もあります。

ユグドラシルとは、最初から静謐な聖域を保っているのではなくて、血で汚れた自我との戦いの歴史を乗り越えた後に、どんなに外部が騒がしくても静謐さを内部で保ち得る状態にあることなのですね。私が写真を撮ることで体現しようとしたユグドラシルは、闇の中から垣間見える光のように、世界を愛として見つめるという真実を瞬間的には味わうことができたけれども、まだまだ自分自身の真実を生きれてはいなかったのだと思います。

今回、美のテーマにまではとても行き着きませんが、真実と愛に生きることが気品となり美につながる、これに尽きると思っています。具体的に癒しとして美しいもの、芸術に触れたいという欲求も高まっています。

本当にまだまだ学びの要素が多いですが(苦笑)、スパルタの喜びも感じ始めていますので(笑)、真実の喜びにフォーカスしていけるよう、だんだんとシフトしていければなと思います。

今回も長文失礼しました。高次の方々、フミさん、ご参加の皆様、ありがとうございました。