≪サロメ≫の説明3

ダメです〜、笑。すぐに続きを書くように指示されているので、頑張って続きを書いてみます。(火星よ、わたしを助けてね、苦笑)


さてさて、「佐藤浩市さん」です。
このギリギリで頑張っているセクシーな男性性(言いかえれば、すご〜く性的な女性エネルギーを必要としている男性)は、なぜ≪サロメ≫を、強く熱望するかといえば、実は、このギリギリな男性性と、≪サロメ≫は、ある意味イコールだからなのです。



男性というのは、世間的に、男らしく、いつも勝利することを求められています。そうでないと負け犬として屈辱を味わうことになります。おそらく幼いころから、男の子というのは、そうなのだと思います。女の子が考える以上に。


女の子以上に、自分を社会的な物差しで測り、位置づけることが義務ずけられている生き物が、男性というものだと思うのです。ですからありのままでいることよりも、頑張って他人より優れることを指向するのです。感情的になることは、効率を著しく下げますから、抑圧し、プライドが傷つけられても、女の子のように簡単に泣くこともできません。



そして、実は火星のエネルギーに象徴されるように、その内的な感情エネルギーの衝動(怒りや破壊など)は、女性性より全然膨大なのです。そして、通常その膨大なエネルギーの衝動は、性エネルギーの衝動として、昇華されることを求めています。



けれども、大抵、「性エネルギーの衝動として、昇華」は、低いレベルでしか行われません。ですから、当然というか、頑張れば頑張るほど、求めれば求めるほど、頭と体が切り離されてゆくのが、男性性の宿命なのです。そういう意味で、≪サロメ≫に同質のものを感じると同時に、≪サロメ≫に破壊されたいという願望も同時に持ってしまうのです。
洗礼者ヨハネのように、自分も頭と体を、いっそのことバラバラにして欲しいと。
通常のおしとやかな女性は、そんなことしてくれませんからね、苦笑。(当たり前ですけど)




よく心理学でも考察されることですが、死の恐怖は、官能の興奮に実は繋がっていると言われています。ですから性的なオブセッション(強迫観念)の行き着く先が、犯罪的になってきてしまうのですね。たとえ死に至らなくても、性は死と深い関係性があるということです。
シュタイナーも、両性具有から、わたしたちが、男性性と女性性に分かたれたときに、「死」がもたらされたと説明しています。わたしたちが両性具有の存在であったときには、「死」は、存在しなかったと。



性的な営みにおけるひとつの頂点は、「小さな死」であるそうです。
男性性というものは、常に頭を使っていて、「無」において安らぐということが、性の営みを通してしか、通常は可能でないからだそうです。
その「解放」を求めて、日頃頑張り過ぎている男性性は、≪サロメ≫的なエネルギーを切望するのかもしれません。
サロメ≫を悪女と規定したのは、そんな自分に破壊をもたらすエネルギーを抑圧しながらも切望している男性性なのだと思います。



冥王星のテーマにあるように、破壊は、実は「再生」への準備なのです。
きっと、本当の男性性の願いは、「再生」することなのだと信じます。



けれども、女性性の≪サロメ≫的な部分が、癒され「再生」していなければ、むしろそれは、互いにとって、恐ろしい破壊の結末になってしまうだけです。
そのためにも、≪サロメ≫のエネルギーが、癒され、「シャローム(平和)」のエネルギーに変化していることが、男性性と女性性の真の統合のために準備されている必要があるのだと思います。