金星の女神学校≪ヴィーナス≫の感想です5

先日は、第二回「金星の女神学校」に参加させていただきまして、ありがとうございました。


今回の≪ヴィーナス≫が扱うテーマの詳細を読ませていただいて、かなり気分が滅入ってしまって、「参加しないって、選択もあり?」なんて思いが頭をよぎったりもしました。


恋愛の欺瞞に誠実に向き合うことを避けてきた私は、傷ついたこともありません。今では恋愛自体が自分とは無関係の事象のようにも感じています。恋愛至上主義的な世間の風潮とはかけ離れているかもしれないけれど、それが私なのだろうと、特に気にかけていませんでした。でもそれが、『隠れた依存性』によるものだと史衣さんの記事で知り、また自覚しました。ゆえに、『そのために、わたしたちに恋愛感情が与えられているのです。これは天からの贈り物なのです。そして、それは、わたしたちが「誠実にそれを取り扱うかどうかに」委ねられているのです。』であるのに、その機会に誠実に向き合うことができなかったこれまでの自分(の欺瞞)に、これまたどうしても誠実に向き合うことができず(汗)、足掻いていました。



私は、天からの贈り物を受け取ることのできなかった自分が天に申し訳なくて、直視できなかったのです。しかし、恋愛という天からの贈り物を誠実に受け取らなかったからといって、女神が怒るだろうか?→否。マスターが怒るだろうか?→否。私を導いてくれる存在が怒るだろうか?→否。では、今自分を責めているのは誰だ?→自分。というわけで、「あ〜、結局全て自分なのか!ありのままの自分を許すことがまだまだ続いているんだ」と気づかされて、向かうべき方向性は見えたのですが、すぐにそんな気にもならず。。。でもこの時突然、白からマゼンタのグラデーションの蓮の花が頭頂でクルクル回っているイメージが浮かんだのです。とても綺麗で優しげで、はらはらと落ちてくる花びらが私のエネルギーフィールドにしみ込んでは癒してくれる・・・私は咄嗟にそういうイメージで自分を許す、自分に愛を送るというイメージワークをしました。史衣さんの記事を読んだ翌朝の満員電車の中での出来事です。


「月の女神学校」の「許せないという信念、感覚に対処する」の回で、「天は、自ら助る者を、助く」という共同創造のお話がありましたが、本当にいつだって女神は手を差しのべてくれるのだと感じました。このことに始まって、今回の学びでは、宇宙がどれだけ愛に満ちているか、私たちはどれだけ愛されているか、ということを知らされたような気がします。



それから女神学校の当日まで、自己憐憫の思いに支配されたり、うまく許せなかったりもしましたが、5次元のナディの時に語られていた完璧な関係性へ辿り着くために、今の真実(ありのままの自分)を見つめるということに心が定まり(おそらく、天から大いに助けられて)、学校開始を待ちました。


前回の学校で、「金星の魔法にブレーキをかけないこと」を言われましたが、今回も自分を立ち止まらせる「怖れ」について、そしてそれを「愛への信頼、愛の魔法による変容」で乗り越えることについて、様々なインスピレーションをいただきました。



その後、目についた小説を手に取り、適当にページを開きました。子供の頃、母親に捨てられたことが心の傷となり、大人になってもその傷を癒せず、それゆえに暴走してしまう男性が描かれていました。これを読んで考えたのは、私自身の傷についてでした。私は生まれた時(出産時)にできた物理的な傷があり、それが原因で「真実は隠すべき」という思考パターンを根強く持っています。恋愛という、ありのままの自分を誰かにさらけだす行為は、それもあって、それをしている自分が想像できないというか、「したくない」と思っています(怖れです)。この壁を乗り越えるには、他者に依存せず、自立すること。では、この深い依存の状態を抜け出すにはどうしたらよいのか?



真実からはぐれてしまった迷路を抜ける唯一の方法は、今の「真実の自分を見つめる」こと。それが自分へ帰る唯一の道、というインスピレーションの後、ふと、私の物理的な傷は、自分が「傷つく」ことによって、無理矢理母との間に決して切れることのない絆を作ったのかもしれないと思いました。以前、エネルギーワークを受けた時に、「母のいない少年」という過去生が沢山あり、今生も「母なるもの」との関係が大きなテーマになっているようだと言われたことがありました。過去生などを自分で感知することはできていないのですが、そういう私の魂全体の痛みがこの物理的な傷を作ったのだと、何故か納得できました。



この影に真実の光を当てて、自立する。そんな自分を責めず、愛して育ててゆくことで、新たな現実が作られてゆくだろう。自分が現実を作っていることをより深く感知していく。犠牲者の振り(勘違い)は、もうやめる。現実を作っているのは自分であって、他者ではないのだから、怖れる必要もない。決定するのは自分だ。不安から憂鬱に陥る必要もない。未来は自分が決めるのだから。



例えば、不完全な自分の成長を待つ間に育つ「忍耐強さ」。それすらも自分が得たいと望んだからこそ、(不完全な自分が)実現するのだ。自分の望みでないものは、自分の人生に存在しない。だから犠牲者というものも存在しない、真実の中には。



何かの状況において、自分が損をしているなどと気にする必要はない。どんな状況であろうと、それを作っているのは自分なのだ。自分が望んで宇宙にオーダーしたのに、それにケチをつけるなんて、無意味だ。理不尽だ。文句があるなら、外側ではなく、内側を見つめる。何故そんなオーダーをしたのか知りたければ、自分の心の声に耳をすますしかない(時に魂の全歴史の中にあるかもしれない)。



同じように、誰との関係でも、自分が望んでいない状態は作られない。不満に思ったとしても、それを望んだのは自分だということ。ゆえに変化の鍵は自分の中にある。簡単ではないかもしれないが、不可能ではない。必ず光へ向かう道がある。



個人としてしっかり存在すること。何にも属さず、頼らず、宇宙の(全体の)一側面として独立すること。それがこの地上の遊び場を楽しむコツだ。今まで、怖れによって孤独を選びつつ、また家族に依存してきたのであれば、「自立」への道を歩き始めることで、現実を変化させることができる。自分としてしっかり立つこと。そのために自分を愛し続ける。「怖れ」が苦しみを育てるのを忘れずに。



翌朝起きて、自らが作った物理的な傷について考えていたら、自分を責める気持ち、憐れむ気持ちに囚われ、早速それが現実に鏡として反映しました。おかげで「ああ、こういう自分の傾向が苦しみ(地獄)を作るんだなぁ」と改めて分かりました。が、どうにも自分の影を直視することができず、ジタバタしていました。それは、出産の際のことで不可抗力とはいえ、私は傷を負ったことに被害者意識を持っていて、「真実を隠すべし」という暗闇を乗り越えることで叡智を得るために、この傷を負ったのだ・・・なんてヒロイックに考えていた部分があったからです。それなのに、私自身が傷を具現したとは!私が被害者であるなら、この場合加害者に当たるのは母しかいません。頭では不可抗力だと分かっていても、心の深いところで、母のせいだと責めていた部分もあります。それが逆に、魂のレベルで、母にその役割を振り当てた加害者は私だったのです。「加害者」の自分を直視する勇気が持てませんでした。「加害者」「被害者」・・・そういう方向にどうしても思考が行ってしまいました。



夕方頃になって落ち着き、私が「加害者」だということではなく、ここで感じるべきことは、魂レベルで私に注がれた宇宙の愛(現実創造における自由を与え続ける)と、母が魂レベルでこの現実創造に同意することで体現した母性意識(私の成長を信じ、依存を許し、受け入れる)という偉大な愛ではないかと思い始めました。そして、「月の女神学校」で語られた『あなたがたが、わたしたちから「無償で受け取れる」ところまで、「成長と純化」を達成することです。』という言葉が何度も頭の中をよぎりました。私の影は、愛を拒んている部分があると感じました。まるで、愛されていることを認めたくないかのようでした。



何故愛を拒むのか、あるいは信じられないのか?それは、私の心の奥深くまで「被害者意識」「犠牲者意識」が根をはっているからだと気づきました。何に対する「被害者」「犠牲者」かというと、「現実創造」においてです。だから、「地獄」を選び続けて、苦しみ続けるのです。



だけど今回、私は知ることが出来ました。叡智を得て、宇宙・人類に貢献するために、犠牲を背負ったのではない。叡智を得るために間違ったのではない。『間違いも叡智の一部』というマスターの言葉や『そして、間違いを犯しました。許されるために。』という月の女神学校での教えと、間違いをあえて引き受けたのだと英雄的犠牲者のように考えることは、異なる事が分かりました。私の魂は、痛みゆえの間違いを犯しました。宇宙の愛がそれを許し、私の望む現実が創造された。私はこの現実に苦しみ、被害者として振る舞っていましたが、被害者ではなく、この現実を作り出した張本人だったのです。つまり苦しみを選んだのは自分で、宇宙は誰にも犠牲(苦しみ)など求めていなかった。それが真実でした。



「現実は自分が作っている」ことは充分知っていたつもりでしたが、今はまるで全てが反転してしまったかのような感覚の中にいます。「現実は自分が作っている」ということの意味するところが私の全てに深く染みわたった時、それは被害者の振りをやめて宇宙の愛を受け入れていくことに他ならないから、その時私の中から怖れは全て消えているでしょう。これが水瓶座の時代の波に乗るということなのでしょうか?



今回の流れにおいては、1月18日の12次元的に怒りについて語られた(シュタイナーの引用と大型電気店での出来事をからめた)記事と1月20日の犠牲と依存の克服と水瓶座のエネルギーの記事に多くのインスピレーションと助けをいただきました。ありがとうございます。



『真実は、愛以外ないということだ』というマスターサナトクマラの言葉を、日々知りつつあります。が!まだ犠牲者意識による「地獄」への信仰も残っていて、どうしても天国の具現に焦点を合わせられず、地獄を選び続けてしまう部分があります。ゆっくり自分を育てていこうと思います。もう被害者はやめます。
今回も素晴らしい機会をありがとうございました。

史衣さん、大変お世話になりました。ありがとうございます!