「レ・ミゼラブル」阿修羅の正義☆


レ・ミゼラブル」は、ミュージカルとしても有名ですし、少し前には映画化もされましたので、
ストーリーをご存知のかたは多いと思います。


わたしが人生で初めて感動して、小4で読書感想文を書いたのも、「レ・ミゼラブル」です。
そのときに書いた内容が、ジャベール警部が、なぜあんなにもジャン・バルジャンを憎んだのだろうか?ということと、ミリエル神父が、ジャン・バルジャンを赦したあの愛こそ、ジャン・バルジャンを変えたのだろうということ、だったと思います。


ジャベール警部は、ジャン・バルジャンを罪を犯したものとして決して許さず、執拗に追い続けます。
それが、「正義」であると信じているから。


ジャベール警部の「正義」は、阿修羅の正義です。


阿修羅は、戦いの神、そして常に戦い続ける神です。そして決して勝つことが無い神。
その戦いを、続ける宿命を背負った神とも言えます。


その阿修羅は、もともとは正義の神だったことはあまり知られていないように思いますが、
実は、阿修羅が戦い続ける理由こそ、「正義」なのです。


阿修羅は、インドの神話におけるアスラとインドラの神話に由来します。
あるとき、インドラがアスラの娘を見て気に入り、強奪してしまいます。
父親であるアスラは、怒ってインドラに戦いを挑みます。
力の神であるインドラにアスラは戦っても戦っても勝てません。
そうしているうちに、アスラの娘も、インドラを愛するようになり幸せに暮らすようになってゆきます。
でも、アスラは、インドラを許せません。
なぜなら、アスラは、正義の神だからです。
インドラの犯した罪を決して帳消しにはできないのです。
たとえ、結果的に、娘が幸せになったとしても、です。
勝てる見込みがなくても、そしてその戦いの意義を失っても戦い続ける、
それが「修羅場」の語源です。
ついに、アスラは、天界を追放され、悪神となってしまいます。


ジャベール警部の「正義」も、阿修羅の正義といえるものです。
それは、ジャン・バルジャンが改心したあとにも、決して許すことをしない正義です。
そして、そのジャベール警部も物語の最後には、自ら命を絶ちます。
自分自身の信念の揺らぎを感じたときに、自らを罰するのも、
また阿修羅の正義なのかもしれません。


けれども、密教の中においては、また阿修羅も仏によって救われるのです。
そして、阿弥陀如来は阿修羅起源であるという説さえあるそうです。
阿弥陀如来は、衆生をあまねく救う大乗仏教の代表的な如来です。


弱さから罪を犯したり、間違えた人を徹底的に糾弾する人は少なくありません。
ことさらに、怒りの声をあげることによって、まるで自分の正しさを正当化するかのように。
まるで、強く相手を断罪し、打ちのめし、苦しめることが、自らの正義を増すことであるかのように。
それは、阿修羅の「正義」に似ています。


ジャベール警部が、あれほどジャン・バルジャンを憎んだのは、実はもうひとつ理由がありました。
それは、ジャベール警部自らが、獄中で生まれた罪人の子であったということです。
自らの境遇に苦しんだ彼は、その苦しみと怒りを、罪を憎むことに昇華させようとしていたのです。


最近、強く思うようになっていることは、
阿修羅の苦しみから、解放される人が増えてゆくといいのになということです。
そういう「正義」が、修羅の道を生むということに、気づく人はまだまだ少ないのでしょうから。


他人や自分を、許さないと許せないと思うときの、その苦しさを知らない人はいないと思うのです。
でも、なかなかその苦しさは、手放せないものでもあるのですよね。
そして、それはとても悲しいことです。



◆シャンティフレア 北鎌倉◆
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