鸕野讚良(うののさらら)皇女★


12月22日(火)〜12月31日(木)まで(全10日間)
「丹生都比売(におつひめ)」特別ヒーリング
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「丹生都比売(におつひめ)」をヒーリングエネルギーとしてコンファームするに当たって、深くインスピレーションを与えてくれたのは、梨本香歩さんの「丹生都比売」でした。


梨本香歩さんの「丹生都比売」は、大胆な仮説に基づいて描かれています。
それは、母親、鸕野讚良(うののさらら)皇女による、子、草壁皇子の殺害です。


鸕野讚良(うののさらら)皇女は、のちの持統天皇です。
鸕野讚良(うののさらら)皇女は、卓越した政治能力と同時に、自身の「嫉妬と羨望」が抱える深い闇を持った存在なのではないかと歴史学者によっても推測されている人物です。


こうして鸕野讚良皇女は、大化元年(645)に生まれた。
奇しくも、この年は、蘇我入鹿誅殺(ちゅうさつ)という大クーデターのあった年で、
いうまでもなく彼女の父、中大兄がその盟主であった。


クーデターの行われたのは、6月12日。
この時、彼女がすでに誕生していたか否かは、不明であるが、
この年の誕生というのことは皇女の人間形成の上に、
この事変が、重大な影響を及ぼしていることを暗示する。


つまりクーデターをひかえていた中大兄は、
それを実行に移すまでの時間、異常な精神の緊張と高揚の裡に過ごしていたに
相違ないからである。
相手は、当代切っての覇者である。
それを倒すからには、敵にまさる精神・肉体両面の強さが要求される。
更には、神の加護、運命の加担も祈られる。


このように考えれば、
鸕野讚良皇女の未生の生命は、
母の胎内に萌す以前にさえも、すでに父方からも大きな影響を
受けていたと思われる。
ましてや母の裡に萌して以後は、深刻な影響を蒙っていたに相違ない。


夫の状態は、妻に反映せずにはいないからである。
そうしてこの懐妊されて以後の生命、即ち胎児は、次には直接、
母の胎内から外界の刺激に反応する。


東洋の哲学において胎児は、けっして零歳ではない。
未生の生命は、母の胎内に在って、自身を取り巻くものすべてを
内外を問わず吸収し、それに反応している。


持統天皇にみる世にも稀な強烈な個性の淵源の第一に考えられるものは、
その父のある一時期に集中された精神力、肉体的力の影響である。
全身全霊を挙げての強敵誅殺、その異常な事態の反映を、
胎児が浴びないはずはないのである。



吉野裕子持統天皇」)

続いて、鸕野讚良(うののさらら)皇女が、5歳のときに、
母方の祖父、蘇我倉山田石川麻呂と、母、遠智娘が、
蘇我日向の讒言によって、非業の死を向かえてしまいます。


祖父が、鸕野讚良(うののさらら)皇女の父である天智天皇によって
死に追いやられるのです。
そして、その悲しみによって、母、遠智娘も、建皇子を出産後病死してしまうのです。


建皇子は、唖という障害を持って生まれる。
そして、鸕野讚良(うののさらら)皇女は、姉の大田皇女と、
この弟である建皇子とともに3人で、皇祖母に引き取られるのですが、
本当の鸕野讚良皇女の受難は、ここからだったようです。


それは、彼女のなかに「嫉妬と羨望」の闇を育てる結果となったであろう、
皇祖母によっての建皇子と、姉大田皇女への偏愛でした。


特に、皇祖母は、唖である建皇子を溺愛します。
この不具の孫を憐れに思い深く愛おしみ、
自分と一つの陵に埋葬するようにも詔しているほどです。


そして、遠智娘に似て、とても優しい性格の姉大田皇女も、
皇祖母のお気に入りだったということです。
必然的に、鸕野讚良皇女は、5歳の甘えたい盛りに
愛情的に疎外されてしまうのです。

657年、12位歳で天武妃に立つまでの少女時代を、
もし鸕野が、大田・建と共に皇祖母の基で過ごしたとすれば、
それは、けっして幸福なものではなかったに相違ない。


三という数は、とかく人間関係のなかで、二対一となり易く、
大田と建が、皇祖母の偏愛の対象であるならば、
この愛の輪から一人、疎外されるのは、鸕野である。


鸕野は、その姉や弟のように、人から愛されるタイプではなく、
祖母の方もまた、「紀」に記されている通りならば、呪術に凝るとか、
先述のように偏執的な傾向の強い性格である。
建王の死後、鸕野が、皇祖母から受けた扱いは、
暖かいものではなかったと思われる。


吉野裕子持統天皇」)

そして、さらに鸕野讚良(うののさらら)皇女を、「嫉妬と羨望」に駆り立てたのが、
額田王(ぬかたおうきみ)」の存在です。


鸕野讚良(うののさらら)皇女は、姉大田皇女とともに
天武天皇の妃として、嫁ぐのですが、
そこには、すでに額田王という大きな存在があったのです。


しかも、額田王は、のちに皇女の実父である天智天皇に請われて、
天武天皇から、兄天智天皇に譲り渡されるほどの、
美しさと才気に溢れた女性でした。


壬申の乱は、実は額田王を巡る、
天智天皇と、弟天武天皇の恋愛的な感情的な確執が
真の原因なのではないか?と噂されるほどなのです。


兄に譲り渡すことになっても、弟も、
なかなかその想いと執着を断ち切れなかったといわれています。


そして天智天皇は、自分の娘のなかでも
高貴な地位である二人の姉妹皇女(大田、鸕野)を、額田王との取引に
弟に与えたともいわれるのです。

天智は、強大な敵を自らの手で、次々と降ろす覇者ではあったが、
一方において、美しいものを愛し、
詩歌を異常なまでに好む繊細な詩人肌の人でもあった。


稀代の才媛、額田が目にとまらないはずはなかったが、
どうしたことか、不覚にも大海人に遅れをとった。
しかし、そうと気付いたとき、そのまま引き下がっている天智ではなかった。


その力と策略を以て、額田を大海人の手から奪取したのである。
それがいつのことであったかは判然しないが、
少なくとも、天武と額田の間の皇女、十市出生後と思われる。



吉野裕子持統天皇」)


鸕野讚良(うののさらら)皇女は、第三チャクラの機能不全によって、激しい権力欲と嫉妬と羨望による憎悪を内面に宿すことの恐ろしさを体現した人物なのかもしれません。


きっとわたしたちの内面にもあるものを強調して体現してくれる人物として選ばれし人物なのでしょう。
歴史の重大な局面において、このような人物は必ず生を受けるものです。


その大きく深い闇を抱える人物にも寄り添えるほどの透明さを湛えるエネルギーとして、
「丹生都比売(におつひめ)」をコンファームしました。
それによって、わたしたちの揺らぐ丹田も静けさを湛えた揺るぎなさへと導いてくれるヒーリングとして受け取っていただけると思います。


2015年いろいろな出来事が、社会的にも個人的にも起こったことでしょう。
年末の慌ただしさの中でも、今年一年の出来事を振り返り魂レベルで昇華し、揺るぎない丹田の働きを以て、迎える新年の運気を安定させるためのヒーリングとしてお用いくだされば、幸いです。



12月22日(火)〜12月31(木)まで(全10日間)
「丹生都比売(におつひめ)」
お申込み締切は、12月21日(月)午後10時まで
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