いただいた≪シェキナー≫の感想です☆


≪シェキナー≫


いつもお世話になっております。


忙しくてなかなかエネルギーワークの感想をお送りできておりませんでしたが、
印象的だったエネルギーワークの感想をお送りします。


実は、《シェキーナー》が行われた頃、
4月から会社についてうまくいくかと過度に不安がっており、
辛い感情に悩んでおりました。


恐怖に対しては、答えはわかっていて、
「高次への信頼」があればいいのだと、
私がそこへの信頼がないので、不安を感じるのだと知ってはいたのですが、
それでも、なぜ、この世はいろいろと怖いことが起こるのか、
その意味を考えていました 。


ちなみに、私は今も恵まれた環境におります。
取り越し苦労というか、杞憂に終わりました。


本当に高次に守られているなと思います。
スピリチュアルを学ぶ人は、ますますスピリチュアルを学べるよう、
お計らいいただけるのかもしれません。
つまり、スピリチュアルを学ぶ余裕を与えてくださるかのように、
本当にお仕事の環境が、大変にならないように整えてくださっています。
また、真理に目覚めたり、癒しが進むことによって、
問題も癒されていくのですよね。


話を戻しますと、私の、「なぜ、人はいろいろと怖いことに遭遇してしまうのか」の
答えですが、
それはその人 の抱える、カルマなどに起因することであり、
すべては理由があるのだと、あらためて思うようになりました。


そのきっかけは、宝塚のDVDで、源氏物語の宇治十条を題材とした
演劇を見たことです。


源氏物語の中でも、宇治十条はすでに光源氏の下の世代の話となっております。


光源氏の再来は誰か、息子世代の物語で、
この演劇を見て、初めて源氏物語は家系の因縁、カルマの再現についてを
描いていることに気づきました。


私は、あまり源氏物語に対していい印象がありませんでした。
それは、光源氏がなぜ女性問題の多い人物で、
罪を重ねるようなことをしているのか、理解に苦しい ところがあったからです。


この印象は、古文の授業の時に知ったストーリーの知識で感じていたことで、
今となっては、光源氏の行動、その子孫たちの行動は、ちゃんと因果応報を
捉えて書いてあるなと思います。


もっと、光源氏がしっかりとしていればいいのに、もっと良い人物として描けばいいのに、
本当にこれは主人公なの?と思う疑問は、
全て、時代が違うからという理由で片付けていました。
平安時代の美男子の基準は現代と違うのだと思ったのです。


しかし、光源氏はさまざまに罪を犯しますが、それは、そういうカルマ、家系の因縁などが
もともと根底にあって、そのような宿命がある程度あっ たのではないかと考えるようになりました。


光源氏以前のご先祖様がどのような生き方をされていたかはわかりませんが、
まず、光源氏自身は、赤ん坊の時に母親が亡くなっており、
これが発端となって様々な罪を重ねる土台が出来てしまったのだと思います。


母親の不在が女性関係の問題ということに表れてしまったのでしょう。


そして、光源氏は多くの女性関係の問題をやらかしてしまい、
それはのちに自分自身が同じことをされることになるか、
または、子どもたちがその課題を引き継いで、同じような問題に取り組まされることに
なる様子が、宇治十条の段階になるとよくわかるのです。


例 えば、光源氏は若いころ、母の面影に反応してしまったのか、
父の後妻(母の親戚筋の女性)に恋をしてしまい手を出してしまうという罪を犯しますが、
年を取ってから、自分の妻が、他の男性の子を産むということが起こります。


このことで生まれた息子は、不義の子ですから、かわいそうだなと思うのですが、
しかし、全体の流れで見てみると、このようなことが起こったことには、
意味があるのだとわかります。


きっと、不義の子として生まれたことは、この子もこのテーマに取り組むことが課題としてあり、
本人は悪いことをしていないのですが、何かと幸せになれません。
それは、母親が抑圧して生きており、ありのま ま本当の自分を生きることが出来なかったことが、
子どもに受け継がれたからでしょう。
だから、真面目に生きているようで、うまくいっていないのです。
自己肯定感の低さというテーマのない人は、飄々とうまく生きています。


何か、理由があるものです。
その理由に気づき、意味があるんだと思い、
学んで乗り越えるために、生きているのだということが
自然とわかる内容にまとめられた演劇でした。


この演劇の描き方としては、罪を犯すということは誰でもすることであり、
また、それは無意識に再生されるように起こるものとして
表現しているようでした。
みんな、罪は起きているけれど、そうな る背景があるのですから、
過度に怖がることではないと思いました。
理不尽に起きているわけではないので。


あらためて、みんなそれぞれなんだと、
罪が起きる前提で人間を見ているというのは、
不思議ととても人を肯定できるものです。


あれだけ、女の問題だらけだった光源氏が、
逆に政治では徳のあるしっかりとした政治ができたのは、
むしろ悪いことをしたからこそ、
ちゃんとその罪を自覚して、
良いことができるモチベーションというか、
人としての学びになっている部分もあるようで、
悪いことをした分、勉強になっているところはあったかもしれません。
人生経験というか、 心を鍛えられるという側面もあったわけです。


罪を受け止めて生きるということを描いているようでしたが、
全体的に「人形」「傀儡」がキーワードとして扱われています。
私も、人間は運命に翻弄される人形なんだと思います。


その部分は肯定し、受け止め、しかし、人として意識的に
それらの運命について切り開くというのが
人間の生き方なのかなと思いました。


「人間は人形」という考えは、例えば、霊媒というか、
自分の考えだけでなく、高次にゆだねた生き方は、
上手な生き方だと思いますので、
この発想はなかなかすごいと思いました。
源氏物語でこういう演出とはと少 しびっくりです。


人は見えない力に動かされて、いろいろ起こるものです。


今は、善人でも前世までさかのぼれば、
みんな罪人だったかもしれないし、低い視点ではなく高い視点を持って、
謙虚に学んでいくしかないなと思いました。
昔は、私も人にこんなことをしたのかもしれないと、
常にわが身を振り返るということを心掛けたいと思います。


怖い怖いというのは、本当に自分だけ安全でいたいという
弱い心であることもわからなければいけないのです。
難しいことでしたけれども、怖いと思っても逆に波長を落とすということも
知っています。
いろいろ、知っていても実践できないもので 、
成長しないといけないなと思いました。


宝塚は脚色がたくさん入っていると思いますので、
多分、実際の源氏物語はもっと違うのかもしれませんが、
おかげで善悪の超越がかなりできました。


今回も本当にありがとうござました。