金星の女神学校≪アルテミス≫の感想です8

再提出の支持を受けてから色々考えていましたが、これかなあ〜と思うヒントが見つかったので書いてみます。前回提出した時は、とりあえず出さなきゃ!って感じで出していました。


私にとってのアルテミスの怒りは、自然から切り離された都会に住んでいたこと、家庭らしい家庭でないことによって、自分の内なる庭につながる余裕のない子供時代を送ったということではないかと思います。父の怒りがひどくて夜中でも起こされたり、振り回されたりしていましたし、部屋も狭いので物音が聞こえやすい家だったこともあり、本当に静かにひっそりとした夜を過ごすとか、一人きりになるという時間は、あるようでなかったと思います。


うちの家は狭いながらも沢山の鉢植えを育てていましたが、その鉢植えの管理権限は父親にあったので、花一つ買うのも育てるのも父以外は一切できないという感じでした。そして、私は父親のセンスが嫌いだったので、その鉢植えもきれいだと思ったことは一度もなかったのです。


そういうわけで、小さい頃は美しい庭の出てくる童話や小説が大好きでした。それも、自分だけの庭、というか、自分だけが知っている秘密の場所という設定の。たとえば、トムは真夜中の庭で、とか、秘密の花園など。その物語を読むことで、自分が置かれている狭くて小さな環境を忘れられると思っていたのですね。


その思いが私を日本嫌いにさせ、ヨーロッパに目を向けさせたのです。ヨーロッパに何かを探しに行っているという本能的な直感で20代のころは動いていました。そして、つい最近、ある女性と出会って深く癒されたことで、自分が小さい頃に何を求めていて、何が与えられていなかったのか分かったように思います。その人は、ある湖のほとりの小さな村に住んでいて、湖の中にある修道院のハーブガーデンを修道士と一緒に世話しているそうです。今度遊びにおいでと言われて、ああ、自分もやっと庭が持てたと思ったのです。

言われた時は、すぐにでもそこに遊びに行きたいと最初は思っていたのですが時間がたつにつれて、どうもそうではないな感じになっています。今は、すぐにでも飛んでいきたいという必要性は感じていません。


むしろ、私が本当に欲していたのは、その自分がのびのびと好きなことをしてくつろぎ憩える空間と、それを用意して見守ってくれる女性的な存在だったのだと思います。それは、大地的な母というよりは、同じ目線で友達のように寄りそってくれる知的なお姉さんという感じです。


小さい頃は、「放っておいてほしいのにうるさくされる」ということが多くて親を恨んでいたような記憶があります。集中して何かをしているところを邪魔されるのが誰よりも嫌いでしたから。また、母親が自分がやりたいといったことをいちいち否定し、その一方でじわーっと支配してくるというのもずいぶんと自分にとっては傷になっていたようで、母性を今いち信頼できない根深い原因になっていることに気づきました。


外なる庭を求めているようで、私が真に欲していたのは、内なる静寂な庭でした。でも、今までは外に行けばどこかに静かな庭があるのではないかと思うばかりで、この内なる静寂につながることをしていなかったのです。


他人の芝生は青く見える、という言葉があるように、他人の庭はうらやましく思えるものです。でも、それを奪っても、また借りても、結局は自分の庭にはならないんだなと思っています。でもそれが分からずにさらに焦燥感に駆りたてられて、色んなところをさんざん無駄に歩き回っていたなと感じました。(とはいえ、私にとっては、例の女性と出会ったことで、今までよく分からなかった色々なことのつじつまがあい、ようやく一つの出来事が完成したという気分なので、やはり彼女が世話をしているというまだ見ぬ「庭」につながったことも意味があったのでしょうが)


それでどうしたらいいのか・・・というヒントをもらったのが、今まで一カ月に一回お世話になっていたアートセラピーのワークショップでした。アチューメントの日、そのワークショップの先生からいただいた個人的なメールに返信をしていて、浮かんだ言葉は、「リトリート」でした。そしてまさにそのアートのワークショップは、現代人のための都会のリトリートの場を提供するというコンセプトで組み立てられているのです。


どういうことかというと。。。ある決められた時間内に、一枚の絵を描いていくことで、自分の内なる泉=創造力の源泉につながることを目的としています。ここでは絵というのは、自分の心の庭にはいるための入口というか、窓のようなものなのです。そして、このワークショップは、カバラの教えをベースにしており、ワークショップに出るごとに生命の樹の階梯を昇っていくという構成になっています。つまり・・・リトリートして、集中し、静かな環境の中で、内なる泉につながり、生命の樹を育てる、ただし、自分の内側の作業として、それを行うというコンセプトなのですね。


これに出て絵を描いていると、自分の大嫌いな色を塗っていたり、真黒にしてみたくなったり、感情が揺れ動いて泣きたくなったりと、結構色んな心の変化があります。あ〜そうか〜自分に足りないのは、この「リトリート」なんだなと。

そして、このワークショップで先生がよくおっしゃっている言葉のひとつが、「人の内なる泉(創造力)は、そのままにしていては決して活性化されない。耕してあげないといけない」ということです。


外なる自然がすべて壊されても、私自身の内側に向かっていけば、やがて外なる自然を生み出したのと同じだけの創造力の源泉につながることができる。だとしたら、外なる自然が壊れ、自分が個として、人間として、自然から切り離されて在るというのは、悲しいことであり苦しいことなのだけれど、そうなって初めて人は、絵筆をとりもう一度自分の中に向かっていくのではないだろうかと、逆説的ですが思います。

そして、そうやってはじめて、一旦切り離されてしまった外なる自然との親密な呼応関係を(より大きく深い理解と喜びをもって)取り戻せるのではないかと。思えば、例の女性と出会い、「庭」に巡り合ったのも、このワークショップに出始めたことと決して無関係ではないようです。私自身の内側で変化が生じたことで、庭を引き寄せたのかもしれないと思います。このワークショップに出ていると、決して楽しいことばかりではなく、色んな感情が刺激されて泣きたくなったり、自分の描いている絵を見たくなくなったりもします。


それは、多分自分の内なる庭の中にある、過去からの正負両方の遺産がごろごろ転がっていて、何に出くわすか分からないし、どんなジャングルに行くよりもある意味恐ろしい場所だからだと思うのです。でも、その中を静かに集中して分け入っていかないと、最も深いところにある泉には到達しないのです。


むしろ、この作業が怖くて、私は外なる庭を求めてさまよっていたのではないか〜と感じています。


でも、ようやく今までほったらかしにしていた内なる庭にここ最近入っていくようになったことで、外なる庭も変わりつつあるのだと思っています。



小さい頃は先住民族の神話や縄文文化に興味があり、小学校六年生のときは、「環境保護の仕事をしたいです!」と卒業式に宣言していたこともあるのですが、原始世界、太古の世界へのあこがれは自分の中にずーっと存在していた基底音だったようで、ここ最近、原始的なものにつながるという様々なワーク(ダンス、巡礼)に触れています。そうしてみて初めて気づくのですが、ずっと桃源郷の中にいたのと、荒野をさまよってから桃源郷を目指すのでは、まったく違うんだなということです。


こうしたダンスや巡礼を楽しむ一方で、物足りなさや矛盾を感じる自分も感じています。何が違うのかというと「失ってしまったという傷、分離しているという傷」がそうさせるのだと思います。人間というのは、傷をいやしたいとも思うけれど、傷を忘れてしまうよりも、なぜ傷ができたのかという意味こそ知りたい存在なのだと思います。この「傷」についての話で思い出したのは、これまた庭文学といってもよい梨木香歩さんの「裏庭」でした。


この小説の中では、主人公の少女が、ある異世界の庭にはいって様々な冒険をしていくのですが、「傷との付き合い方」について学んでいく心の旅を描いています。彼女は、母親としっくりいっていないし、双子の弟を事故で亡くしてしまったし、傷を抱えています。でも、この異世界の中で、傷を恐れず、支配されず、その傷を育てていかなければならないとうまくつきあっていかなければならない、と少女は老婆たちに教えられます。


特に私がこの作品の中でとても興味深く感じたのは、「傷」がある意味肯定的に捉えられていることです。簡単に言うと、傷は個性の始まり、ということなのです。個性は、全体から離れるという痛みを伴って初めて可能になることで、そのひりひりするような誰にも癒してもらえない孤独(なぜなら傷はそれぞれの人に固有のものだから)がいつも付きまとうのです。だから、この痛みはむしろ大切に育んでいかなければならないものなのです。



最後、とても印象的なシーンがあります。それは、この主人公の女の子が、「やっぱりお母さんと自分は違うんだ」とがっかりするシーンです。彼女の傷(お母さんに愛されていない)はハッピーエンドで癒されるわけではないのです。ですが、同時にそのとき、この物語の最初からどこからともなく鳴り響いていた大砲の音が、母の心臓の音だったと気づき、それを忘れないでおこうと思うのです。(クリスタルのグリッドの赤いガーネットは、まさに脈打つ女神の心臓のようだと思います)


だから、この大砲は、別れを告げると同時に新しい世界への門出を祝う礼砲サリュート)として、彼女を祝福してもいるのです。ここで重要なのは、この異世界の庭というのが、どこか深い部分では、この世界のすべての庭と通じ合っているということです。なので、この少女が本当に母親と自分が違うという自覚ができるようになったのも、この庭の奥にある深い層につながることができて初めて可能になったことでもあるのです。そういう意味では、ひとりひとりが自分の内面に沈潜していくことで、本当に外側の世界が変わっていくということも示されています。だから、深い部分ではこの少女は分離の癒しを受け取ってもいるのです。


タロットカードの悪魔は、傷を怖れ、傷に支配され、傷を育てることを拒否する姿のように思えます。進化を拒み、分離を怖れ、その分離を消そうと躍起になってそこにとらわれている姿に見えるのです。(偽りの両性具有的存在が悪魔で、偽りの自然性にこだわっているのが両脇の裸の男女の姿だと思います)でも、この痛みに向き合ってしっかりと自分のものにしないと、そのとき本当に悪魔のトラップにとらわれてしまうのですね。


そして、それは自分一個人の中で起こることだけではなく、たとえば、「傷」というか病などについても言えることです。HIVに関する活動をされている女性の話で、「人はHIVよりも怖い。でもHIVよりも強い」という言葉が思い浮かびます。HIVウィルスを撲滅するといった場合、偏見や知識のなさから、人は、病原菌を撲滅するのではなくHIVウィルス保持者を撲滅するという方向に動いていってしまいます(たとえば、同性愛の方や性的に乱脈とみなされた人などに刃が向けられてしまうのです)。でも、大切なのは、こうした病原菌とどのように付き合っていくか、もっと行ってしまえば共存していく仕方を考えることなのです。たとえば風邪の菌は撲滅できないものですが、人類はなんとか風邪とも付き合っています。それと同じことが、HIVに関しても言えるのではないかと、その活動家の方はおっしゃっていました。


痛みや傷を躍起になって消し去ろうとする努力は、どこかで必ずくじかれるのです。悪魔は痛みや傷をマヒさせる偽りの癒しや、こうした痛みや傷を抹消しようとする暴力を提供するからこそ悪魔なのでしょう。でも、それが偽りだったと気づいて、もう一度自分の内側にリトリートしていかないと、創造の源泉につながることができないのです。そして、それこそが、真の癒しなのです。


悪魔のカードにはそういえば、他にも現世的な利益や経済活動という意味もあるのですが、アチューメントの間に考えていたのは、お金をしっかりもうけていく、出来ない仕事にはノーという、ということが自分のサンクチュアリを守るために必要だったのだということです。


教師だった両親が夜中近くになっても生徒の親からの電話を受けたりしていたのですが(そしてそれは私たち子供の怒りの原因にもなっていました)、気づいたら私自身も無償で人助けしたり、いつもだらだらと仕事をしていました 笑自分は本当の意味で天使じゃないのに、まるで天使のようにふるまって内面では苦しんで怒っていたいたわけです。


三次元世界で良い意味で悪魔のエネルギーを使うためには、この辺の部分については清濁併せのんで動いていかないといけないのだと感じています。(色んな意味で匙加減とバランス感覚を養うということです)
(この辺はパラスアテナとも関係していくのでしょうか??)

以上です。
これでちゃんと再提出に合格できるといいのですが・・・!?